2019年7月4日木曜日

絶対の正義と単純な動機


 ドン・ウィンズロウ『失踪』(角川文庫、2015年)を読む。『犬の力』(2005年)の、単なる力の発動として繰り出される暴力性に、何のためらいも感じていない作家の内心の由来を覗いて見たいと思い、『仏陀の鏡への道』(1997年)を読み、ハードボイルドから出発した作家ではないと知った。だが子細な中国事情の書き込みに対して、あまりに単純な行動の「動機」に、呆れもした。これでは単なる、俺は(中国のことも)知っているぞという知識のひけらかしではないか。「犬の力」の最後に記した、この作家のモチーフ「わが魂を剣から解き放ちたまえ/わが愛を犬の力から解き放ちたまえ」はどうなったのか。そう思いながら読んだのが、今回の「失踪」。


 ハードボイルドなセンスは残っているが、それを主旋律としていない。失踪した少女の命を救うということを絶対の正義とするニューヨーカーの気構えをベースに物語は展開し、まったくその正義と反対の欲情に充たされたセレブリティの所業を断罪する。アメリカ人て、こんなに単純明快なのって思ってしまう。毎日TV画面でトランプの振る舞いを観ていると、そうかもしれないと、つい同感してしまいそうになる。これじゃあ、「犬の力」が突破力となって、さらに別の犬「システム」の力に対抗するのも、単なる舞台の仕掛け程度にしか思えない。

 日本のミステリーはどうなのか。たまたま図書館の書架にあった大門剛明『雪冤』(角川書店、2009年)を手に取った。「第29回横溝正史ミステリ大賞受賞作」と振ってある肩書をみて、目を通した。いや驚いた。こんな作品が大賞を受賞するなんて、選考委員の目はどうかしてんじゃないか。どんな事件も、その事件を起こしてしまう人間の情動に嘘っぽさがあったら、たとえ入り組んだ仕掛けが巧妙に見えても、あほくさくて付き合いきれない。私はそう思う。

 死刑という国家による殺人を支える人々の心情がなんであるかに切り込もうという作者の動機は面白いと思うが、そういう理念的なことと殺人とが結びつくには、よほど巡り巡った「かんけい」が、登場する人々の心情と結びついて絡み合っていなければ、読むに耐えない。それならいかに単純明快でも、先述のドン・ウィンズローのアホなアメリカ人のほうが、読んでいて「理解」できる。作家がいろいろなことを勉強して物語の舞台を設えるのは欠かせないが、読者はミステリーを教養として読んでいるわけではないから、それをひけらかされても、面白いとは思わないのだ。

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