2019年7月25日木曜日
孤独と孤立の分別
森博嗣『孤独の価値』(幻冬舎新書、2014年)が図書館の書架にあり、目を通した。森博嗣はミステリー作家。20年くらい前だろうか、彼の作品が目に止まり読んだことがある。どちらかというとトリックに工夫を凝らしたもので、社会観や人間観はあまり匂わない。機能的というか、メカニカルな感触の作品だったので、以後手に取ることはなかった。ただ、国立大学の工学部教授をしているという身分がなんとなく気にかかり、名前を憶えていた。その彼のエッセイ。すでに退職しているというから、還暦退職をしたのであろう。結構なことだ。
編集者の求めに応じて、このエッセイを書いたという。だから彼自身が切実に「孤独」を「酷い」とか「侘しい」と思ったわけではなさそうだし、いやそれどころか、むしろ、孤独は悪くない、すばらしいと考えている向きもある。その理由を坦々と記述するときに、世の中では孤独を酷いことという通念があるのを対象において、疑問を呈しながら分節化し、述べる。まあ、物書きの求められた哀しさが感じられる。
それもあって、今世の中で問題にされるのが「孤独」ではなく「孤立」だということが分かっていない。先日も記した「やまゆり園事件」の被告のモンダイは(「妄信」が根っこにはあるが)、「社会的な不遇」が引き金であると記した。(世の中に受け容れられない)と感じるのが、何に拠るのかは人それぞれであるが、自分の思いが相応に遇せられないと感じることは(事件につながらなくとも)多々ある。自分の思いが達せられないではない。相応に扱われないことへの鬱屈は、「格差社会」という言葉が広まる以前から、広く(ことに若い人々の間では)溜めこまれている。「孤立を好ましく思っていない人が無視されるように孤立している」ことに端を発すると要約した。これは社会的な孤立の、現在の姿だ。
「孤立」と「孤独」が違うことは、前者が場におけるありようであるのに対して、後者は心理的な感懐だという点にある。森博嗣のエッセイのテーマの設定自体が「孤独」であるから、彼の記述が心理的な趣に偏るのは致し方がない。とすると、「孤独の価値」という論述が「孤独は酷い」という社会通念を批判するだけでは、深まりようがない。「孤独」が「社会的な孤立」へと移行していく現代社会の構造をモンダイにしてこそ、「酷い」という感懐を掬い上げて、なお、「価値あること」へと展開するのが、物書きの業ってものではないか、と思った。
「孤独」を周期的な波ととらえて、それを微分したところに感情の変化率が現れ、さらにそれを微分すると努力(加速度)の変化が見てとれると展開するところは、なかなか面白い見立てだと思う。山歩きにおける筋肉痛の現れ方で、私も同じように感じているので、なるほど工学的解析というのはこういうものかと、感心した。でもそれは、森博嗣自身が限定をつけているように、限られた条件の限られた局面における、いわば試験管の中だけで「測定可能な」見立てである。だが、「孤独」というのは、その「価値」を論じる森自身が、彼の生涯の総まとめのようなコトゴトを動員して述べるように、いわば、まるごとの人生のモンダイなのだ。とすると、社会的な孤立へも視界を広げて展開してこそ、「孤独の価値」を述べたといえるように思う。
断片において共感するところを感じながら、ということは私にも、森博嗣のような機能的な、メカニカルにものを考える傾きがあるのだと考えながら、読んだのであった。
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