2019年7月26日金曜日
年寄りは障碍者だ
今日(7/26)、ストレッチの運動の後、ご近所の方々と月例の飲み会があった。商社や外務省や国内企業の退職者などが公民館でやっている会を軸に、月一回、飲み会をやろうというちゃらんぽらんな集まり。その時ふと誰かが、「やまゆり園3年」といったことから、話しがはじまった。はじまりは、被告の彼が「障碍者はいらない」という意見を変えていないこちであった。話は拡散しほかの話題に転じているうちにやはり誰かが、(今の時代は)年寄りを大事にしないと言ったことから、一挙に話題が収束した。
「年寄りって、障碍者じゃない」
「やまゆり園事件」の被告の言説に共感する部分を、もし、持ち合わせているなら、1年寄りは障碍者じゃないか。もしそれにいくぶんかでも共感するところがあるなら、被告の言い分を私たちは、わがコトのように受け止めてもいいのではないかと、話しは展開した。
酔っ払いの話であるから、コトはすぐに収束したが、「年寄りは障碍者」というフレーズは、残った。世の中の役に立たない人たちは、排除されて然るべきだという論理は、どこか私たちの内心に巣くっていて、ときどき(私たちの内心に)頭をもたげる。
年寄りである私たちが、その思いを内心に抱いている。だから、やっかいなのだ。自身のことについて、そのように思っている部分があるということは、別に政府から「国賊」といわれようといわれまいと、私たち自身の立場からケリをつけなければならないと思う。
いますぐにここで、結論を出せといわれてできるわけではないが、なかば同意するような気分がある限り、「やまゆり園事件」の被告と私たちは同じ被告席に座っているのだと、思った。
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