2019年7月24日水曜日
ボヘミアンとしての人生
第二期も第8回を迎えた(7/20の)Seminarのことを報告しておきたい。講師はfmnさん、お題は「人生に寄り添ってくれたメロディ」。 当初私は、「懐メロ」と思った。だから、以下のような「案内」を記した。
《……でも、懐かしのメロディとなるかどうかは、語り手と聴き手の醸し出すハーモニーがもたらすこと。/「人生に寄り添う」ってことは、懐かしいことばかりではありません。恥ずかしいこともあり、厳しいこともあり、思い出すだに臍を噛むほど悔しいこともあります。/ただ年を取ると、たいていのことが遠景に霞んで、♫あとはおぼろ~、あとはおぼろ~♫ と気まずかったことが記憶から薄れて、懐かしく思えてしまうものです。/リタイアしてからバイオリンの演奏に挑戦しているfmnさんが、寄り添ったメロディに沿いながら彼の人生を語りだすのだとしたら、これまた、なかなか興味深いものです。伴奏付きで、人生の転機を迎える。面白そうですね。聴き手もまた、自分の人生の転機に伴奏してくれたメロディってなんだろうと思いを馳せることが出来ます。ぜひ、お運びください。》
予測は違った。fmnさんは彼自身の音感を形成した「メロディ」を解きほぐし、音を意識し始めてからのメロディとしてジャズからロックへの歩みをとりだして概観し、最終的に「ボヘミアンラプソディの秘密」と看板を振って、彼自身の人生をクイーンのロックに託してまとめ上げるという離れ業を展開してみせた。その終結点が面白かった。人生はボヘミアンであるというのである。
大きく、三部構成にしていた。冒頭にまず、生音、生演奏からはじまり、蓄音機(レコード)、ラジオ、テレビと進展してきたメディアの変容をまえおきして、第一部は、「大衆文化としての音楽」と副題を打って、私たちが子どものころから耳に親しんだ「音楽」を拾う。昭和21、2年の「岸壁の母」にはじまり、田畑義男、広沢寅蔵と、ラジオの時代に親しんだ音楽が、いわば私たちの肌身の音感を育てていたと、それらの録音を拾ってきて、小さいオーディオ装置で聞かせて話を展開する。その後半にアメリカンポップスやマンボ、ロックアンドロール、ブルースやゴスペルを含むジャズへと流れ込む辺りに、世代的に共有する体験としての「メロディ」をとりだしてくる。
それらはしかし、私たちの高校時代が終わることとテレビの時代に移ったこととともに、音の共有体験は蒸発し、ビートルズの登場という(fmnさんにとっては劇的な)事実を画期的な共有認識として、身体に刻んだ「懐かしのメロディ」は終わったとfmnさんは観ているようであった。彼自身は、そのように明快にことばにしてはいなかったが、「大衆文化としての音楽」のメモリーが、「昭和38年の強烈なイギリスロック:高校卒業してから、ある日突然すごいものが……」と触れたのち、「平成30年(私にとって)びっくりドキドキの曲:令和になってもまだ評判の……」へと飛躍していることにも、「共有体験の欠落」が伺われる。
fmnさんにとってはそのあと、「音を意識し始めてからの」時代へと踏み込み、第二部、「ジャズからロックへの歴史」とまとめる。19世紀後半の黒人霊歌にはじまると枕をおいて、ニューオーリンズからミシシッピ河をさかのぼってシカゴへいく道程を、ルイ・アームストロング、スコット・ジョプリン、ベニー・グッドマン、マイルス・デビス、チャック・ベリーなどを紹介しながら、音としては「聖者の行進」、「ラグ・タイム」、「スウィング・スウィング・スウィング」「死刑台のエレベータ」や「バック・トゥー・ザ・フューチャー」の主題歌を聴かせる。その合間に、ボヴ・ディランとかジョーン・バエズという懐かしい名を織り込みながら、クイーンの名曲にたどり着く歩みは、彼自身の音楽への傾きを年代記として辿っているように見えた。
その間にじつは、fmnさん自身のバイオリン演奏が挟まる。還暦を過ぎてから習い始めたバイオリンが、聞けるようになっている。というか、fmnさん自身がたのしみながら曲を演奏する次元に、ようやくたどり着いたよと、歌いかけるようであった。「さざんかの宿」と「北国の春」の歌詞を用意し、彼が老人ホームで演奏するように、自作の道化帽子をかぶり衣装を凝らし首にタオルを巻いてバイオリンを弾く姿は、志村喬の映画『生きる』の一場面をほうふつとさせるようであった。
だが、この日のfmnさんのSeminarの掉尾を飾ったのは第三部「ボヘミアンラプソディの秘密」であった。クイーンのメンバーの紹介、Bohemian Rhapsodyのおおよそ300語になる原曲の歌詞を紹介する。Mama just killed a man とはじまる第二フレーズを訳しつつフレディの身を置いた境遇に思いを馳せ、 彼の(詩句の)語りを、人類の終焉と重ねて受け取り「自分が自分を殺す」歌だと、解説する。その言曲を聴かせたのち、fmnさんはそのメロディを彼自身のバイオリンで演奏する。ついつい私たちも、原曲の歌詞をたどりながら、ということは、fmnさんの解説してくれた意味を読み取りながら、彼の演奏を聞くことになった。
ボヘミアンをfmnさんはジプシーとは違うという。ジプシーは居所を転々とする放浪の民。だがボヘミアンは、元はヨーロッパのボヘミア地方をさしていたとはいえ、身の置き所を失った人々を意味している(と私は受け止めた)。転々としているとは言え、ジプシーは、居場所をもっている。それに対してボヘミアンは、身の置き所さえ喪失して、彷徨っている。まさに私たちの現在の「せかい」における位置ではないか。そう、fmnさんが見据えようとしているように思った。
ボヘミアンとしての人生、そのようにもう一度、私自身の径庭を振り返ってみると、どうみえるか。メロディばかりに気をとられると、その曲を聴いたときの私の「せかい」に応じて、意味を付与してしまっているのかもしれない。詩句に導かれて、ハードに己自身を見つめ直す機会に出遭っているのかもしれない。
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