2019年7月12日金曜日

突然の訃報が普通になった


 ご無沙汰しました。昨日夜、石垣島から帰ってきました。
 「ブログが更新されていませんが、お身体に問題ありませんか」とタイに住む友人から、メールが入ってきました。ブログの更新が「無事の知らせ」になっているのですね。気遣ってくださり、ありがたいことです。


  また大学時代の古い友人から「1959年入学のMさんが、今年6月10日に急逝した」と知らせるメールが入っていました。じつは、大学時代のサークルの集まりがあったのですが、ちょうど石垣行きの予定が入っていたため、私は出席していませんでした。2年先輩のMさんは「小柄でベレー帽を被りショートホープをたしなんだ、カッコいいひと。喫茶店で絶望しながら希望(ホープ)を吸うとは、などと実存主義的? 会話を交わした」と古い友人が見立てた通りの美人でした。昨年は箱根で行われたサークルのOB会にも出席なさっていて、闊達にことばを紡いでおられ、学生の頃に抱いた「思い」を起点にして、連綿と続く変化に富んだ人生を送ってこられたと思わせる同胞意識を感じさせる方でした。

 ちょっと横道にそれますが、大学時代のサークルというのは、いわば「ことば」を取り扱う活動をしていました。当然のように時代状況を反映して、認識・情報・革命という文化領域での思想が論題となるやりとりをしており、田舎出の私にとっては、タバコを吸いながら議論を吹っ掛け、あるいは応酬する彼女の口舌に、驚嘆させられていました。それは、いま振り返ると、「ことば」は振る舞いをともなって発せられ、受け取られており、当時流行の言説と論理ばかりが尖っている政治党派の論議とは一味も二味も違った「実存」を伴う認識が、強烈に刺激的でした。まさに「ボーっと生きてんじゃねえよ」といわれているように感じていたのですね。

 つまり、《学生の頃に抱いた「思い」を起点にして》というのは、「ことば」を存在そのものと切り離せないものとして発し、受け止める「思い」を手放さずに、という意味です。そうして、《連綿と続く変化に富んだ人生を送ってこられた》というのは、学生の頃の起点に執着することなく、しかし、それと断絶しているわけでもない径庭を感じさせる「時代の変化」と「自身の変化」をそれなりに見つめ続けている感触が、彼女の「ことば遣い」から伝わってくるのです。《同胞意識》というのは、じつは私も、同じ径庭を経てきていると、いま日々感じているからにほかなりません。

 Mさんの突然の訃報は、しかし、この歳になれば驚くことではありません。毎年のように、誰それが亡くなったと、話題になります。タイに住む友人が感じたように、5日間ブログの更新が絶えると、(あいつ身罷ったんじゃないか)と思うのは、気遣いの裡。ありがたいと言わねばなりません。そうだからこそまた、機会あらばお会いしておくことも厭わない心がけが必要なのかもしれませんね。彼岸と此岸を行き来する面持ちとは、こういうことをいうのかもしれません。

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