2020年3月14日土曜日
進化医学という視点
「浮かれてていいのかい? ホモ・サピエンス」と新型コロナが声を発していると、昨日記した。
いま読んでいる本で、「進化医学」という領野があると知った。健康とか病気を、個体の身体の機能的作用からみるのではなく、よりマクロの視点からとらえるアプローチという。出発点は、「そもそも病気とは何か」「なぜ人間は病気になるのか」という問いにあったそうだ。医学が歴史的視点を組み込み、哲学的にすすめられている(広井良典『人口減少社会という希望』朝日新聞出版、2013年)。出発点の問いに対する回答は、「病気とは、環境に対する個体の適応の失敗あるいはその「ズレ」から生まれる」というもの。
その事例として、狩猟・採集生活や農耕がはじまったばかりの生活時代は、食料が欠乏しがちだったので人間の体には「飢餓に強い血糖維持機構」が備わっているが、〝飽食の時代〟であるげン材ではこれが逆に糖尿病等の原因になっている、と。あるいはまた、狩猟・採集生活の時代は(野原で獲物を追うなどする中で)よく怪我をしていたので「止血系」が大きく発達しているが、これが現在ではかえって血栓や動脈硬化の要因となっているそうだ。さらにまた、花粉症や各種アレルギーなどは環境の変化に人間の体が追いついていないために生じるものであり、またこれだけ変化のスピードが速くなった時代において、さまざまなストレスが生じるのはごく自然のことである、と。
冒頭の「回答」にことよせて言うと、人間が自らつくりあげてきた「環境」の変化に身体が適応不全を起こしているのが「病気」だというのである。「地球倫理」を提唱している広井に言わせると、「環境」に加える人間活動を考え直せということにつながるのであろう。だが、ここで思索は二つに分かれる、と思う。
(1)ひとつは、人類としては「不適応」の「病人」を着実に作り出している。その割合が(我慢ならないもの)になるまでは、「適応」したものがその環境に見合って「進化」したものということもできる。つまり、ある程度の「病気」という代償を払って人類は、やはり着々と適応進化している、と考えることもできる。ある程度の犠牲はつきものというわけだ。
(2)もうひとつは、作り出されている「不適応」の「病気」が、じつはもう引き返せない所へ来ているのではないか。とすると、「環境」そのものへ加えている現在の圧力を考え直して、その路線変更を大胆に切り替えなければならないときが来ている。その「路線」を考えるべきではないか。
(1)の犠牲が我慢ならないもにになるかどうかの見極めは、どこに置かれるか。「病気」に対する医療技術や治療薬が開発できることで、行き詰まりを先延ばしにすることができる。それができなくなったときが(2)の段階に入ってことを示す。となると、たとえば、新型コロナを巡って懸念されている「医療崩壊」が起こったら、どうか。つまり医療技術や治療薬の開発という科学的側面からではなく、社会システムとして「病気」に対応できないとか、医療保険制度が破綻するというのも、社会的な破たんといえよう。たいていは貧富の差に応じて、医療の恩恵を受けられない人は埒外に置かれて命を落とすことになって、でも社会は知らないふりをして「社会全体としては適応できている」と言い通そうとする。優勝劣敗というわけだ。3秒に一人、飢餓でなくなる人がいるということを、私たちは知らぬふりをして、いまも日々を送っている。
つまり「個体」が適応できるかどうかではなく、人類が適応できているかどうかを問われている。人類という連帯感までも喪失した私たちにとっては、類的危機は、いつだって対岸の火事。わが身に及ぶまでは、単なる「情報」だ。そういう人たちもいるだろうというデータの断片。そういう国もあるのかという、他人事に過ぎない。
今回の新型コロナの蔓延は、わが身のこととして降りかかっている。それはしかし、「新型コロナのことばかりではないぞ」と警鐘を鳴らしているように思える。この場だけを凌げば、胸のつかえが降りて、また元の暮らしが戻ってくると考えない方がいいように思えるのだ。AIの研究者がいったシンギュラリティを待たず、私たちがいま歩んでいる道筋を、もう一度吟味し直してみてもいいのではないか。
進化医学の知見が、そのように教えていると思える。
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