2020年3月16日月曜日
「類的普遍性」をどこに認めるか
「集団免疫」という言葉を初めて耳にした。今日のこと。新型コロナウィルスに関する英国のボリス・ジョンソン首相の演説。その内容が「事実上の降伏演説」というので、えっ、なに それ? と画面を見やった。ジョンソン首相の演説は、いたって率直。コロナの広まりは当分続き、簡単には収まらない。だが、「6割の人が免疫を身につければ、社会的にはほぼコントロールできる状態になったとみていい」。だから、学校を閉鎖するとかイベントを自粛するとか、出歩かないということはしない。それらを行うと却って、保険医療活動に従事する人たちの家に閉じこもることが多くなり、モンダイが大きくなる、と。上記の「6割の……」が「集団免疫」と呼ばれていた。むろん反対する(国内の)専門家もいるが、主導している二人の専門家の提案に今のところ沈黙しているという。
その仔細をネットで調べると、感染の初期段階にあるイギリスとしては、それなりの知見を含んでいる。
(1)何ヶ月にもわたり、幾度か感染拡大の山を迎える長期戦になるから、「自主隔離疲れ」になって、感染のピーク時に出歩くようになってしまう。
(2)スポーツ観戦などの大きい空間などよりも、家庭の狭い空間の方が感染する度合いが高い。
(3)感染拡大のピークを夏まで遅らせることによって、なんとか小規模の被害にとどめよう。
最後の(3)については、果たしてそうなるかどうか。南半球での広がり方をみると疑わしいが、「自主隔離疲れ」を想定するところが、いかにも経験主義的なイギリスらしいと思った。
それにしても「事実上の降伏演説」とは、穏やかでない。ジョンソン首相が、「感染が広がるにつれ、実に多くの家族が身内・親友を失う」と率直に表明したことをとらえたのであろう。そう言えば、3・11のときに菅首相が「原発の周辺は30年間は住めなくなる」と発言したことを「ひどい!」と非難した日本のメディアならではの、見出しの付け方である。
このイギリスの「対処」の仕方は、「自然の脅威」に対して、自らの自然存在としての身の程を弁えて、国民に「覚悟」を求めたものということができ、私はそれなりに好感している。
新型コロナにまつわる世界各国の動向をみていると、「目にみえぬ/対処法のわからぬ」相手に対して、どういう「秩序」をもたらしたらいいか思案していると、見ることができる。「目にみえぬ/対処法のわからぬ」相手は、別様に謂えば「自然」だ。それだけに注目すれば「自然」は無秩序の増大をもたらす方向へ動いている。エントロピーの増大とかなんとか、難しい用語を学者は使っているが、逆にいうと、ヒトが考えて行う「対処」は、その自然の混沌に秩序を与えようとしていることである。二項対立的にいえば「混沌vs.秩序」である。科学者は「法則性」と呼ぶが、私は限定された領域での「法則性」に過ぎないとみる。つまり、混沌のなかから、一部を切りとって「法則と呼ぶ秩序」を与えたにすぎないと思っている。
話はずれるかもしれないが、そう考えると、ヒトが行うコトゴトは皆、「秩序をあたえる」ことである。言葉に表して名づけるということも、混沌から取り出して、その混沌の断片に「種」とか「類」とか「属性」という秩序を与えて、混沌から切り離している。ヒトはそうやって、世界を秩序あるものとして整え直そうとしてきたのだが、「自然」がそれに逆らって、「混沌」の本領を発揮してみせていると、今回の新型コロナをみることができる。
では、その「秩序」が類的普遍性を持っているということを、何を根拠に考えているのであろうか。イギリスのように、経験主義的な振る舞い方が、まだヒトをも自然存在の断片と位置づけている、それなりの戦略的な気配を感じる。その根拠を、誰か学者が探っているだろうか。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿