2020年3月3日火曜日

行き交う同窓生の十字路


 いま、「36会Seminarの七年の軌跡」をまとめている。36会というのは、私の田舎の高校の36年卒の同期生のうち首都圏にいる人たちがつくっている「同窓会」。だが、36会がいつどのような経緯で誕生したのか、私には、精確なところはわからない。2009年11月16日の「36会掲示板」に次のようなMハマダくんの書き込みがあった(*[数字]は「掲示板」の掲載記事番号です)。

 
     *[376] 蘇る記憶  Mハマダ ◇ 玉野三六会
      東京在住の同級生が集まりだして7~8年になります。なんの規約もありません。卒業生に限ってもいません。年一回の忘年会には14~15名が集まっています。話は楽しいものです。
     近寄りがたいほどの偉人はいませんが、各分野で立派な仕事をし、各々の経験に裏打ちされた人格には敬服するばかりですよ。まだまだ若さにも溢れていまし、向上心に満ちた方もいます。
     とりわけ、女性陣は宇野・玉・日比中等出身のマドンナたちの集まりです。ゆかいですよ。
      鳩山首相の「友愛」、笹川良一氏の「地球はひとつ、人類みな兄弟」とありがたい名言(迷言)がありますが、私は小田実の「人間みなチョボチョボや」との考えが大好きです。友とはこの考えでお付き合いしています。
 
 のち、2010年10月31日に、Mハマダの奥さんであり、かつ、同期生のキミコさんが、やはり「36会掲示板」に実に詳細に「36会」の成立を記しています。
 
    [480]キミコ  2010/10/31
     元々、36会は昭和30年代の一時期を玉野で同じ空気を吸った者の集まりと、理解しています。高校を卒業したかどうかはあまり問題ではないと、思っています。
     卒業後40数年経て、還暦を機会に関東に在住するOB達が集まって結成したものです。(玉野高校の教師になっていたG木君が、玉野高校の公式の同窓会の「玉野高校同窓会関東支部」の高校側の幹事として定年前に最後に上京するに当たって、『同級生を沢山集めておいてくれ』との要望が発端です。いわば、彼が言い出しっぺです)。高校の同窓会の組織とは別に、毎年同級生だけで集まろうと云うことになりました。このとき同窓会中部支部の会長のO君(ヨッちゃん)も上京し関東支部同窓会に出席していたので、われわれに同級生として合流し、この会の名付け親となっています。集まった当時、みんなが親しい友人であったわけではありません。名前も顔もよく知らない同士もたくさんいました。
     昭和30年代の一時期を玉野で同じ空気を吸った者が40年以上経て、こうして関東で暮らしているのも何かの縁、毎年1回ぐらいは顔を合わせて近況を語り合おうという趣旨だと理解しています。
     キーワードは〝昭和30年代〟〝玉野〟だと思います。閉鎖的な同窓会ではありません。
 
 玉野高校の昭和36年卒業生で関東地方に出てきている人たちの会、ハマダくんは「サボロー会」と呼んでいます。
 東京はあの、「サラリーマンに聞いてみました」とTVで決まってインタビューを受ける蒸気機関車広場のある新橋のビルの1階にお店を構えている「***」のご主人・ハマダとお内儀・キミコさん、二人とも36年卒の同窓生です。そこに行き交い屯ろする人たちの周辺で「36会」が生まれ落ちたのではないかと推察しています。
 新橋駅前のここで、彼らがいつも店番をしていましたから、首都圏在住の人たちはもちろん、地方から上京してきた人たちも、時間を見つけては立ち寄り、消息を交わす。いわば行き交う同窓生の十字路、情報交流センターになっていました。
 これのお蔭で「36会」があると私は思っています。
 いつであったか、(のちに「中部36会」を名乗る)名古屋近在に住むOさんが「わたしもサボロー会の名付け親の一人」と話していましたから、この人たちがワイワイとおしゃべりしている合間に、ひょっこりと「36会/サボロー会」が生まれたのでしょう。
 
 いまこうして、「掲示板」や「Seminar」のやりとりをまとめていて思うのだが、このハマダ夫妻のホスピタリティ豊かな人柄、モノゴトに向き合う真摯さ、なによりご自分の皮膚感覚を通したものの見方と読書経験に裏打ちされた該博な知識が、行き交う、種々の同窓生を、十字路においてもてなしたのであろう。そうして、そのもてなしの一つとして、全員が70歳になったとき、そこまでの人生を振り返って、私たち世代の自画像を描いてみないかと提案し、「うちらあの人生 わいらあの時代」としてまとめてみると、みてとる人の立ち位置、そのむけられた視線、返す言葉や振る舞いの醸し出す人と人とのかかわりの色合いが、さまざまに読み取れる。それを「古稀の構造色」と呼んで、75歳までにまとめてみようではないかと提案したのはハマダ君であり、最初に口火を切ったのはキミコさんであった。それが、皆が70歳になった年に「Seminar」として結実し、隔月に開催されて、ここまで7年間つづいてきた。この3月で合計43回を迎える。
 
 還暦を機会に集まって顔を合わせるようになった単なる同窓会。せいぜい、忘年会をしたり、花見をしたり、ときに山を歩いてハイキングを楽しむばかりであったが、2004年6月に「掲示板」をつくってから、そこでのやりとりがなかなか出色であった。キミコさんの指摘する通り、「玉野」と「昭和30年代」をキーワードに、取り交わす写真やコトバが、緩やかに人柄を備えて浮かび上がる。地元からの飛び込みで、現地の花火大会や進水式の写真が添えられる。
 ときに「はじめまして」と呼びかけた相手から「どなたでしたっけ」と問われた中途から転向した人が「出しゃばってごめん」と謝る。それをとりなして「36会というのは」と説明したのが、上記のキミコさんの投稿であった。そしてさらにその一月ほどのちに、まったく別の方から、その二人が1年生の時に同級生であったと「調査結果」が伝わり、ともに年を取ったことを確認するという次第であった。
 
 その「掲示板」、途中で「掲示板」サイトが閉鎖になり、別の場所に「36会ブログ」として模様替えをして15年と9カ月。今に至っている。だが、言い出しっぺのハマダくんの目が悪くなり、パソコン画面を観ることが適わなくなった。加えて隔月に開かれるSeminarで十分言葉を交わすことができるとあって、目下書き込みは、サイト管理者の私一人になっているという次第である。
 
 「まとめる」というのは、歩んだ足跡の一歩一歩の道程を振り返ると同時に、還暦から17年、Seminarの発足からでも七年というスパンで視界に収めると、歩一歩の道程が子細を捨象して歩程とルートの全容を照らし出すように目に浮かぶ。それは、戦中生まれ戦後育ちという私たちの径庭の全体をひとまとめにしてわが胸中のものとして吟味するような面持ちを醸し出している。ちょっとワクワクしながら、パソコンに向かっている毎日だ。

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