2020年3月23日月曜日

家畜化するヒト


 20世紀の半ばから、ロシア(ソ連)人進化生物学者・ドミートリ・ベリャーエフの行った「実験」があるのを知った。ダーウィンの進化論と異なり、突然変異によるのではなく、意図的交配によって遺伝的形質の変化が起こるという「実験」である。意図的交配というのは、人を恐れ近づこうとしないキツネを「家畜化」しようという「意図」である。研究は今も続いているらしい。

 
 3000頭のギンギツネのなかから従順な個体の、雄狐30頭と雌狐100頭を選び出し、掛け合わせていった結果、第四世代で、世話係が近づくと尾を振る子ギツネが現れ、第六世代では、一部の子ギツネは積極的に人間に接触をはかった。尾を振るだけでなく、クンクン鳴いた。また人の顔をなめさえした。そのような振る舞いをするキツネらを一括して「エリート」と名づけていたが、第十三世代にはその割合が、49%に達したそうだ。そして2005年にはすべての子ギツネがエリートカテゴリーに属し、ペットとして飼えるほどになった、という。
 
 そのことを紹介した本はリチャード・C・フランシス『家畜化という進化――人間はいかに動物を変えたか』(西尾香苗訳、白揚社、2019年)。それによると、ただ単に尾を振ったり、人になついたりするだけでなく、顔の幅が広くなり、繁殖期が長くなり、年2回出産するようにさえなったという。そのような形質の変化は(専門家たちのあいだでは)「家畜化の表現型」と呼ばれているそうだが、この著者はケモノに対するヒトのこうした働きかけが、実は人間に対しても行われているとみている(と思う)「誤植」をみつけたからである。こう記している。
 
《ベリャーエフが強調したように、人間を資源として利用するための鍵となったのは、人間の接近に対して耐える能力、一言でいうなら従順性である。ベリャーエフは、養殖場のキツネに対して強い人為選択を行うという実験により、従順性の進化を圧縮した。自然選択ならばもっとゆっくりと徐々に起こる過程を原理的に証明してみせたのである。》(エピローグ)
 
 上記文中の1行目「人間を資源として・・・」は、「人間が資源として・・・」の「誤植」であろう。文脈を読めば、それが誤植であることはすぐにわかるが、私は訳者が助詞を間違えたというよりも、著者フランシスが「家畜化という進化」の論述を通して一番気にし、強調したいことが、「人間を資源として利用する・・・」「家畜化」が進行しているという指摘ではなかったか。フランシスは、本文中に次のように記している。
 
 《わたしたち人間にも「家畜化の表現型」が現れている。人間が「自己家畜化」されているという見方が広まってきているが、ほとんどの哺乳類で、(初期段階で「家畜化の表現型」が)重要な役割を果たしている。》(p36)
 
 1960年代の前半に「サイバネティクス」が盛んに唱えられ、人間と当時開発が進んでいた電算機械との融合した形が研究開発されはじめた。それはヒトの身体性への機器類の補佐によるものばかりでなく、都市設計においても、企業の製造過程においても、産業設計においても、「人間工学」という言葉とともに急速に現実化されていった。それらはコンピュータの発展によってさらに広く深く細かく、人と(機械と)の共生の道へと進んできた。それは逆に人の側からみると、そのように設計された産業システムや医療や、知的分野も含めた社会システムにヒトが適応していくことでもあった。その象徴的なかたちが「人間の自己家畜化」ではなかったか。
 
 その「人間工学」の「意図」は、その時代の一般的な「人間」認識であり、資本家社会的な市場システムや国際関係における政治・軍事的な利用可能性であり、それらに共通する知的科学技術的「資源」としての「人間観」であろう。その「自己家畜化」の究極の(引き返し不能の)ポイントこそ「シンギュラリティ」と呼ばれる地点なのかもしれないと、思った。進化生物学の研究が、ブレーキをかけるきっかけになるのか、あるいはいっそうそれを促進する方向へ力添えするのか、わからない。
 
 そういえば、東浩紀が「動物化する人間」と名づけた人の変容は、ひょっとすると「家畜化する人間」と同じことを指していたのかもしれない。とすると、沼正三描くところの「家畜人ヤプー」になってきつつあるということか。ふ~む。

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