2020年3月22日日曜日

面白うてやがて哀しき・・・


 人はなぜセックスを隠微なものと思い、他人の目から隠し、しかしなおかつ、他人のそれを覗きたがるのであろうか。
 文化人類学者ジャレド・ダイヤモンドの『セックスはなぜ楽しいか』は、ホモ・サピエンスが進化の過程で辿った養育と生活資源確保の安定化のためのメスの戦略という仮説を立てていた。それは逆に、他の動物のセックスは楽しいものでも哀しいものでもなく、ただ本能の然らしむるところと規定することでもあった。つまりホモ・サピエンスだけがセックスを(楽しいことと)価値的にとらえている。「楽しい/心地よい」という感性が備わっていてこその「価値」ではあるが、どちらが先か後化は、どちらでもよい。相互的に発生したともいえるからだ。

 
 しかもセックスという極めて個体的な行為は、オスを日常的に確保しておく戦略となると、メスによって誘われ、楽しきものと思わされて関係が独占されるように働く。つまりオスにとってセックスは、本能的発情とは別に日常的に繰り返し誘発される所為となる。いや、本能的な(メスの発情によって誘われる)ことにとどまった種族は滅び、岸田秀が指摘するように本能が壊れて、日常的に発情している種族が、より適応して生き残ったと言った方がいいかもしれない。
 そう考えてみると、ことにメスにとってセックスは(オスを定常的に確保しておくべく)独占的に、秘匿しておくべき個体的関係の行為といえる。「不倫」に対する女性の側への(女性の側からの)厳しい指弾も、男性側の、どちらかというと緩やかな向き合い方も、単に男性中心社会だからというだけでなく、セックスに対する(進化生物学的な)男女の非対称性が、少なからず作用しているとみることができる。
 
 それにしてもなぜ、セックスは隠微なものと感じられるのであろうか。生理的なこととすれば、飲食や排泄と同じで、それ自体は隠すことではない。排泄はまた別の(不潔という)観念にかかわるから忌避されてはいるが、「快楽」を「罪」とする宗教的戒律とも関係するのであろう。あるいはまた、独占的な関係に置くことによって、いっそう秘匿することが「発情」を誘発する作用を組み込んだともいえる。それが逆にまた、他人のそれを覗いてみたいという出歯亀趣向にもつながるのかもしれない。
 その「出歯亀」趣向が昂じて、「覗き」を充たすべくモーテルを買い取って改造し、経営しながら二十何年かにわたって、何千人というカップルのそれを覗き、逐一記録し、感懐を綴り、老年となってそれを秘匿しきれずに、ドキュメントライターに託して公にしたいという振る舞いに至った人物の経緯を綴った本が出来した。ゲイ・タリーズ『覗くモーテル観察日誌』(文藝春秋、2017年)である。「記録」を託されたゲイ・タリーズは、「覗き」自体が犯罪であるとの観点から、これに同調はしないものの、これを続けてきた人物に興味を抱き、会ってそのモーテルの覗きをも体験し、ドキュメントライターとしての矜持を保ちながら、30年以上経った2016年に上梓したものの翻訳が本書。訳者は白石朗。
 
 ゲイ・タリーズがマッサージ・パーラーの取材をもとに、アメリカの性意識、性産業の変革を考察していた『汝の隣人の妻』に使ってもらえないかと、話を持ち込まれたのが、最初の出逢いであったという。話を聞くに、これは眉唾物かもしれないと思い、とりあえず会ってみようとしたところから、実名入りでなければ書かないと伝えること、許可をするまでは公表しないでくれと誓約書を書かされたこと、当の人物がモーテルを廃業し、その建物が人手に渡り、ついには解体されるまでを、一つのストーリーにまとめている。覗き趣向の当人も、その妻も、家族の写真も、当のモーテルの写真も文中に挟んでいて、いかにもニューヨークタイムズの内幕を描いた作品の著者らしく、ドキュメンタリーものという体裁を保っている。
 
 だが、残念ながら、覗き趣向をこのように満たして、このように「記録」した人物がいたという以上の、目新しい踏み込みや考察はない。ただ、読みすすむうちに、はじまりはただ夢中になってわが身を忘れ、コトが終わってみると己の姿が、何だかみっともなく、ばかばかしいものに思える、わがセックスの在り様と同じ。なんともヒトというのはメンドクサイことにかかずらわないではいられないものかと、慨嘆しくなる。読むのがうっとうしくも、厄介になる。でもまた、ほとぼりが醒めると、それがわが生きている原動力の根っこにどっしりと横たわっていることも感じる。セックスについて私は、(この年になっても)何もわかっちゃいない。人生も、メンドクサイものだ。こういうのを生苦というのかも。
 
 面白うてやがて哀しき・・・という感懐が残る。

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