2020年3月5日木曜日

近代化への天罰


 感染者が増えている。感染者の「足取り」も公表される。だが、その方々がどのようなルートをたどって行き来したかは省略されているから、聴く者が判断するしかない。なるほど、国内外を含めて、人の往還が広がっていることがわかる。つまり、バスや鉄道の交通手段は自ら防備するしかない。となると、たとえ「小さなイベント」であっても、集まるまでに人の多い広い領域を通過する場合は、「自粛」するかどうか、見極めなければならない。だが、「見極める」って、どうすりゃいいのさ。山へのアプローチも、なかなか判断がムツカシイ。自家用車で行き来する分には、「無観客」のようなものだからモンダイがないと考えられるか。

 
 「トイレットペーパーがなくなる」というデマの拡散は、どこかの社会学者の「社会実験」ではないかと私は考えていた。関東大震災の当時とは情報の拡散速度も範囲も格段に違うから、それがどのような経過をたどって広がるかの追跡はむつかしいだろうが、面白い「実験」だと思った。ところが、一挙に広がって全国区で小売店舗の陳列棚からトイレットペーパーが消えた。昨日立ち寄ったスーパーでも、「お一人様一個」と書いてあった。品薄感が広がると、手元に置いておきたいと思うから、ますますデマは現実感をともなって広がる。
 つまり、この社会学実験で明らかにされるのは、デマの拡散流通ルートではなく、「人間て何か」ということのようだ。流通ルートなどというものは、いまやグローバルに検証しようがない事態に至っている。
 TVをみていると、ヨーロッパでも、日本人が暴力を振るまわれたと報道している。日本でも、車内で咳をすることが憚られ、苛立った乗客が暴力をふるう様子も、画像になっている。たぶん勤務先でも、同様の振る舞いが(中国ならずとも)あちらこちらで起こっているにちがいない。これもトイレットペーパーどころではなく、「人の社会」における規範のもろさや「かんけい」の敵対的放散への「観察」をすることができる。
 そのようにみると、先月末の首相の「全国一斉、小中高校の休校」に感じたように、暮らしの規模や範囲が閉じこもりようがないほどに広がってしまってきたことが、天の声によって指弾されているように思う。そして、もう引き返せないという意味で、その「シンギュラリティ」ははじまっていると思った。
 
 かつての東京都知事は、いまこの様子をみていて、「グローバル化なんてするから罰が当たったんだ」といっているのかどうか。ぜひとも、身の程知らずに、このようなことを公言してもらいたいね。

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