2020年3月17日火曜日

切ない鬱屈を死刑にすることはできるか


 昨日(3/16)、「津久井やまゆり園」45人殺傷事件の植松聖被告に、横浜地裁は求刑通り死刑を言い渡した。それを報じた「ダイヤモンドonline(2020/3/16)」のジャーナリスト・戸田一法は、法廷での被告の様子を綴った末尾で、《植松被告は一切の後悔も反省もないように見える。そして、ネットでは支持する投稿がある。/それが、怖い。》と締めくくった。
 そうか? と、どこかに違和感を感じた。

 
 ヘイトスピーチが行われ、世界最強国の大統領であれ、日本の最長記録首相であれ、#ミー・ファーストの蔓延しているご時世を考えると、「ネットでは支持する投稿がある」ことは、ほとんど不思議ではない。だが「それが恐い」? なぜ恐いのか。
 
 わが身の裡のどこかに、植松被告の言ではないが、「言葉がしゃべれないのは人間ではない」という思いに共振する振動が、感じられるからではないのか。わが身の裡を覗いていみると、異形に対する恐れの感触がみえる。恐れは虞れであり畏れである。ただ恐いという感触の「恐れ」、何か良くないことが起こるのではないかという「虞れ」、と同時にわが身を縮こまらせてかしこまる「畏れ」が、ないまぜになって身の裡に湧き起る感じが見てとれる。なぜかはわからない。ただ「異形」は、見慣れぬもの、見知らぬもの、正体がわからぬものへの「おそれ」であることだけは、まちがいない。20歳代の後半になってはじめて脳性麻痺の友人ができた。話をするうちに、「おそれ」の感触は、緩やかにほぐれていった。何よりもその友人が、一緒に歩くときに「気を遣うな。勝手に行け」というときだ。気遣われることに「苛立つ」彼自身が、自らの「異形」とぶつかっていると思うと、では私はどうすればいいのかと自らに問うて、答えがでなかったことが何度もあった。
 
 その、棚上げされて出なかった答えの残滓が植松被告の発言に震えていると感じるのだ。だから、彼が死刑に処せられて「片づけられる」とき私は、自らの棚上げされた「なにか」もまた、答えを見つけることなく放擲されるような気がしている。私は「死刑廃止論者」ではないが、昨日の判決を聞いたとき、死刑で片づけてはならないという思いが心裡に湧き上がるのを感じていた。
 経験則的にいえば、障碍者を施設に隔離していることが、私たちの日常の目から遠ざけている。それが余計に「異形」性を膨らませていると思える。障碍者の家族にとっては「かけがえのない」存在であったという。まずその「かんけい」の第一のことは、日々触れあっていることにある。日々触れあっていれば、ことばを発せられるかどうかが意を通じあえるかどうかの決定的な振る舞いではないと、わかる。隔離しているのは、障碍者ばかりではない。病人もそうだ。老人もそうだ。あるいはタバコを吸う人も、薬物乱用者も、不倫をする人も、そうだ。健全な経済活動や社会活動にそぐわない人々は皆、隔離せよとする社会規範が、じつは私たちの日常文化を限りなく狭めている。私たちの健全な社会は、自縄自縛になっていきつつある。
 
 だが、では、やまゆり園に勤めて、日々接していたこともある植松被告にとって、「異形」性が消えなかったのか、と問われるかもしれない。彼はやまゆり園の障碍者たちを「言葉がしゃべれないのは人間ではない」と指弾することによって、かろうじて自分自身を「人間である」とみることのできた地平に、切なく身を置いていたのだと思う。たとえば、彼のやまゆり園での働きが、ひょっとすると彼自身の「ほこり」を傷つけるものであったかもしれない。自分が生きているのは「もっと価値あることのはず」という思い入れを抱懐し、こんな生き方は「わたし」ではないという切ない思いが、つねに彼の身の裡に噴き上がって「鬱屈」となっていたのではなかったか。
 ヒトは自らの安定的立ち位置を感じることなく、身を立てていくことはできない。それはヒトによっては、常に優位性を確認することであったり、あるいは安定的存在に承認されている感触であったりする。それはメンドクサイことだが、「自己」の存在が社会的に承認されているという自己確認の形なのだ。このメンドクササは、社会的関係の中で生まれて生きていくしかないヒトの宿命ともいえるクセである。それが(身分制のなくなった)現代では、ことに、日常の前面に押し出されてきた。
 
 植松被告がどのようにして、自己確認のメンドクササを確証しなければならないような「切ない鬱屈」を抱え込んだかはわからないし、それを明らかにしたいとも思わないが、そのような「切ない鬱屈」の確信的安定点として「意思疎通をはかることのできる/できない障碍者」を見いだしたのだと、私は思っている。
 何を根拠に? ヒトをそのように追い込んでいくことに容赦ないシステムに私たちが暮らしていること、のように追い込まれて自死したり犯罪に走ったり、オカルト的な宗教に身を投じたりする人を、たくさん見てきたからだ。
 
 もっと「せかい」は混沌の方がいい。私たちはちっぽけな存在にすぎない。わかったふうな恰好をして、決めつけるな。この世に77年生きてきた、経験則的な年寄りの「せかい」の見切りだ。

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