2017年2月27日月曜日
認知症の内と外
久坂部羊『老乱』(朝日新聞出版、2016年)。医者の書いた認知症の物語りとみて、読んだ。妻に死なれて独り暮らしの78歳、己の危うさに当人がうすうす気づきつつある。ご近所に住む息子一家の嫁がそれなりによく面倒を見ている。目配りができるから、義父の暮らしの些細な異変にも気がつく。それが事故や事件に結びついたときに降りかかる負担が(自分たちを含めた)暮らしを一変させる「報道・情報」にも気が回る。つまり、世の子供家族の平均的な姿を取り出して、主題は「認知症」である。
2017年2月26日日曜日
「普遍」は陽炎
むかしハンナ・アーレントがギリシャ民主主義は普遍的なものではなく(ヨーロッパにだけ通用する)特殊なかたちだとみているという「解説」を読んで、とてもアーレントに親近感を持ったことがある。アーレントは、ヨーロッパ標準を世界標準とみなしている知的世界の常識を覆そうとしていたのだと思う。そのようにして、アジアその他の地域にギリシャをモデルとする民主主義が「適用」されるような発想を批判していた。親近感の根っこには、ヨーロッパ学を学び取ることが知的な第一歩と教え込まれてきたことへの苦痛があった。そのときには気づかなかったが、そもそも「普遍」という考え方自体がどうして「特殊」よりも優れていると考えるのか、私は納得できないできたのだ。
2017年2月23日木曜日
道なき道の山歩き(2) 三つ岳の肩を越える
昨年の奥日光の山歩講では「おいしいものを食べたい」という希望があり、「誰ですか、そんなぜいたくなことを言っているのは! 賛成です。」という声に押されて、湯葉しゃぶしゃぶを特注したのだが、到着後のお酒がたたって、食べきれなかったと、ほぼ誰もが反省していた。今年は、食事の特注をしなかった。さらに私には、大いに反省すべきことがあった。2日間の雪山歩きを終えて帰宅した後、痛風を発症してしまった。その三日後に予定されていた奥日光案内ができなくなり、khさんやswさんに全部お任せしたという恥ずかしいことがあった。それ以来、夕食時の「晩酌」を止め、お付き合いとお祝いのときだけ飲むことにして、約一年という記憶があった。先週16日に街で集まりがあって友人たちと飲んで以来4日間、まったくお酒を口にしない日がつづいている。そう、今日のための用心でもあった。「威張ることじゃないよ」と嗤われたが、私にとっては画期的な出来事であった。
道なき道の山歩き(1) 中禅寺湖北岸・高山の峠越え
春が近づいて関東地方に低気圧が到来するようになり、4日おきに雨が落ちる。山沿いでは当然、雪になる。20日から21日にかけての大雪で30センチの積雪があったと奥日光湯元で聞いた。その21日から昨日まで、奥日光のスノーシューハイキング。山の会・山歩講の月例山行である。
2017年2月20日月曜日
批評と感想、文学と読み物(続) 断裂する「世界」
昨日の話しをにつづけたい。今月の問題提起者のKtさんの語り口がどこかしっくりこない。
《何に興味・関心を持つか、書き手のイデオロギーだけで判断すべきでない。》
《人それぞれに関心、感動の要因がある。大きいのは、その作品の出来である。》
《質の高い作品であれば、右、左関係なく評価するし、感動するはずである。》
「判断すべきでない」――なぜ? なぜそう一般的に言えるのか? えっ? おまえならどう言うの? 私ならきっと、「判断すべきとは思わない」というだろうなあ。Ktさんは、どこかに「普遍的な基準」を想定している。ここでいう「普遍的な基準」とは、この言葉を聞く人たちも「同じように思うに違いないという確信」ではないか。その「確信」をかぶることによって、じぶんの内面に踏み込むことを避けているのではないか。養老孟の「バカの壁」ではないが、「確信の壁」はじぶんを守る。他の人たちと同化することによってわが身に及ぶ危険を回避している。じぶん固有の価値に踏み込めば、それを解析して(問題提起者としては)説明しなければならない。それは、なぜじぶんがそのように考えているのか、なぜじぶんがそう感じているのかにいったん降りたって、ふたたび他人に伝わる言葉にしなくてはすまない。
2017年2月19日日曜日
批評と感想、文学と読み物
今月の「ささらほうさら」の問題提起者はKtさん、テーマは「小説とイデオロギー」。加藤典洋が『永遠の0』を批判しているのに噛みついた。出典は加藤典洋『世界をわからないものに育てること』(岩波書店、2016年)。私はこれを読んでいません。Ktさんは、加藤の文章を引用した後で、こういっています。
① 《加藤は、『永遠の0』は、「なかなかに心を動かす、意外に強力な作品と、そう受け止める方がよいのではないかと感じた」と、多くの読者、観客の存在を認めざるを得ないような物言いをしているが、上記のように認めていないのが本心である。》
2017年2月17日金曜日
「機械」というアルゴリズム
今週月曜日に奥日光の雪山へ下見に行って「途中敗退」したと記しました。もっていた「私の(山歩きの)コーラン」であるスマホの画面が真っ白になり、地図が表示されなくなったのでした。
家へ帰ってみると「現在地」を表示すると地図が出てきました。では、と、「日光湯元」を検索すると、「データがありません」と表示が出て、それ以上動きません。他はどうかと思って「えきから時刻表」を動かしてみると、「機内モードを解除してください」とでてきました。おや、いつそんなモードになったのだろうと「機内モード」をチェックすると、ちゃんと「機内モードOFF」になっています。もう一度やってみると「WIFI接続していません」との表示。でも「WIFI・ON」です。どうしていいかわからず、スマホ購入のお店にもっていきました。
2017年2月15日水曜日
第24回aAg Seminar ご報告 (4)我が人生を振り返るSeminar
1657年に130万人程度であった江戸の人口は、江戸の終わりごろまでほぼ横ばいであったと言われている。それが、1920年の初の国勢調査が行われた時点(東京)では約370万人、三倍になっている。1930年には540万人、1940年には740万人になっている。10年ごとの国勢調査結果では1.5倍のペースで膨れ上がっている。これは日本の産業の近代化が急速度で進み、東京へ人口が集中していっていることを示している。この人口集中は戦後もつづき、2010年には1300万人、江戸のころの十倍。これを世界的な大都市になったと喜ぶのか、どうしてこんなことになったのかと嘆くのかは、何処からみているかによって違うであろう。
2017年2月13日月曜日
中禅寺湖北岸を独り占めした雪山
朝の中禅寺湖
岩を避け、斜面を歩く
明日から天気が崩れるというので、今日、山へ行ってきた。来週、奥日光の雪山案内があるので、その下見を兼ねてひと歩きして来ようと思ったわけ。6時半に家を出て、奥日光竜頭の滝に着いたのが8時40分。5分ほどで雪山用のウェアを来てスノーシューをもって歩きはじめた。
岩を避け、斜面を歩く
明日から天気が崩れるというので、今日、山へ行ってきた。来週、奥日光の雪山案内があるので、その下見を兼ねてひと歩きして来ようと思ったわけ。6時半に家を出て、奥日光竜頭の滝に着いたのが8時40分。5分ほどで雪山用のウェアを来てスノーシューをもって歩きはじめた。
2017年2月12日日曜日
欲望は抑えられないか(2) 我が「かんけい」の然らしむる処
ずいぶん間が空いたが、1/10の「欲望は抑えられないか(1)「制御可能」の体幹を鍛える」の(つづく)を受けて書き記す。
「欲望は抑えられるのか」と論題を立てるとき、「その欲望」を保つ者の内側から立てられているのか、「その欲望」を保つ者の周辺にいて、かかわりをもつ外部から問いが立てられているのかで、応えるスタンスが百八十度違ってくる。まず、どちら側でもない「欲望」そのものからみると、次のようなことが言える。
2017年2月11日土曜日
意外にガラパゴス、で長生きするのか
姪っ子に娘が生まれた。といっても第二子。上も女の子だから、仲のよい女同士になるといいと思う。それは上の子にとっては何よりの贈りものになろう。妹の誕生は、同時に姉の誕生でもある。兄弟姉妹というのは、カインとアベルの物語にもある通りに競争的関係にもなるが、模倣し模倣され、保護し保護されて育つという人として成長していく過程に欠かせない要素を間近に持つことになる。上の子が必ずしも優越的にだけ位置しているわけでもない。上の子を模倣して下の子が磊落に振る舞い、上の子はそれを見て己自身にかけていた制約の殻を破るということもある。人は鏡に映して己をかたちづくるから、ひとりの「こころ」も周囲によってかたちづくられていく、いわば集団的無意識の造形物だと言える。
2017年2月10日金曜日
プロってどういうこと?
真保裕一『レオナルドの扉』(角川書店、2015年)が図書館の書架にあるのが目に留まり、手に取った。読みながらスタジオジブリの映画『天空の城ラピュタ』であったか『ハウルの動く城』であったか、空に浮かぶ脚漕ぎの舟が頭に浮かび、へえ、この作家はこんな作品も書くのだと思いながら読みすすめた。小説には珍しく「あとがき」がある。それをみるとなあんだ、この作家はアニメ出自だったんだとわかった。私が最初に目にしたこの作家の作品は『ホワイトアウト』だったから、まったく彼のアニメがらみは知らなかった。そうした今ふりかえってみると、この『レオナルドの扉』が『天空の城ラピュタ』などをイメージさせたのも、たぶん文体からくる。彼自身が、絵になるようなイメージを思い描きながら、それでいて物語りが勝手に展開してしまうような運びを愉しんでいるように思えたのだ。荒唐無稽ってのもいいねえ、こういうのって、作家冥利に尽きるんじゃないか。
2017年2月9日木曜日
けっこう変化に富んだ山、高尾山
今みぞれが降っている。今日は荒れると、ずいぶん前から予報が出ていた通り。昨日まではすこぶる付きの晴天。山の会の「日和見山歩・城山―高尾山」。高尾駅で8時過ぎの小仏行きのバスに乗って「日影」バス停で下車。登山者がけっこうたくさん乗っているのに驚く。高尾山の北側に並行して走る尾根を登り、かつての小仏城址の城山で、高尾山からの尾根と合流、そこから南へ下り大弛峠から再び高尾山の稜線へ登り返すというコース。つまり、高尾山の、年間三百万人が訪れるという混雑するルートを外れて、静かな高尾山をぐるりと経めぐるという、なかなかおしゃれなコース。今日のチーフリーダーMsさんが選んでくれた。
2017年2月7日火曜日
劇団ぴゅあ公演が受け継ぐ文化
トランプの「七か国からの入国禁止」大統領命令に執行停止の仮処分が連邦地裁から出され、それに対してトランプ大統領が「前例にない判事非難をしている」と報道がなされています。「もしテロが起こったら、おまえ(判事)のせいだ」とトランプ大統領がいっているのですが、(行政府としての下品な言葉つきですが)「判事のせいだ」というのは、これはこれで、それなりに的を射ているのではないでしょうか。むろん判事の「仮処分判決」は行政執行においての直接命令ではありませんが、トランプ以前の行政府のやり方に戻れというのですから、それなりに「事態」に対しての(判断)責任を持たなくてはなりません。「三権」のひとつが、判断を下したのです。「責任」が阻却されるわけにはいかないのですね。でも、トランプ政権になってから、急にアメリカ世論が騒がしくなりました。「虚―実」を争うということも、大統領自身がマス・メディアなど自身に反対する勢力を敵に回す口つきもあるでしょうが、いつも反対派のデモが行われ、反対意見と衝突を繰り返している印象がまとわりついています。ま、アメリカという国はそれだけ民主主義的に健康な体力を持っているのかもしれません。
2017年2月5日日曜日
私たちは「ショパン」をもっているか
須賀しのぶ『また、桜の国で』(祥伝社、2016年)を読む。第二次大戦頃にポーランドに赴任した大使館員の姿を描く。ロシア革命によって成立したソ連、ナチズムのドイツ、南満州鉄道の経営権を手に入れた日本、日中戦争に深入りする日本、対立が深刻化する米英と日本、ドイツとの接近と大きく揺れる国際情勢を背景にして、翻弄されるポーランドと在ワルシャワ日本大使館員。これまで平板に国際的な力関係として受け止めていたヨーロッパ情勢に、そこに暮らしているドイツ系やスラブ系やユダヤ系ポーランド人と、ドイツ、ロシア、日本といった国と人との「かかわり」がもっている微妙な「友好的/敵対的/優越的/差別的」関係を織り交ぜて、丁寧に、しかし簡明に描き出すことに成功している。
2017年2月3日金曜日
天気晴朗なれども風強し
埼玉県には海がないから「波浪高し」とはならないが、今日の見沼田んぼは風が強かった。昨日は川口の道満堀公園近くの荒川土手を通りかかったとき、前方に富士山が姿を見せた。今日は、見沼の遊水地からくっきりと富士山が見える。このところの晴続きで空気が乾燥しているせいで、遠くの山の輪郭がすこぶるきれいに見える。とりわけ富士山はお宝を見たように思える。このときになってカメラを忘れてきたことに気づく。
2017年2月2日木曜日
第24回aAg Seminar ご報告 (3)江戸から現在へと「解体」されてきたこと
江戸時代の市場経済が繁栄したのは、参勤交代の費えが大きく影響していたと、時代物小説の愛読者である講師のM.ハマダさんはいう。おおよそ各藩の収入の半分ほどをつかったらしい。その費えは街道筋の宿場などに落とされであろう。それに加えて、江戸屋敷の経費がある。これは江戸の町そのもので消費される。江戸の町がエコという感覚は、たぶん、消費物資がおおむね地産地消であったことと下肥などが江戸周辺の農家に買い取られていたということ、つまり、循環が現地主義的に完結していたことによるのではないか。江戸のエコということを下肥を近隣農家が買い取っていったという循環に絞って考えては的を射ていない。循環の社会的規模が適当な大きさであったことを忘れてはいけない。参勤交代が落とした経費もそうだが、まず前提として各藩の独立採算というか、自治的なまかないが前提であった。各藩の規模、つまり広さと抱える人口と差配する範囲が適切な大きさであった。いずれそのために、江戸に物資が集中するにせよ、必要経費を賄うために特産物を市場に出して換(金)銀しなければならない。米だけでは融通が利かない。
脇道と見えることこそが本筋なのです
貫井徳郎『空白の叫び』(小学館、2006年)上下二巻を読む。人を殺した三人の中学生の人生を描く。とりわけ優れた人物の造形があるわけでもなく、ミステリーとしての物語りも際立っているわけでもないが、ひょっとすると今風の(といっても十年も前の作品だが)若い人のシニシズムを描き出しているだろうかと思った。生きているのが苦であるという気配が、人を殺す出来事の前に、すでに裡側に堆積している。その在り様は哀切ですらないというのが、私の読後感。
2017年2月1日水曜日
一点豪華の思親山
昨日は我が団地の水槽清掃日。むろん業者が入る。9時から午後4時ころまで水道が使えない。そこへもってきて日本列島の大半が晴天とあれば、山へ行かない手はない。ちょっと遠出をして、身延町の南、富士市の北、山梨県南巨摩郡南部町の山、思親山1031mへ行ってきた。身延町といえば日蓮宗の大石寺がある。「思親」という儒教的なセンスとどう見合うのかはわからないが、関係がないのかもしれない。
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