2017年2月5日日曜日
私たちは「ショパン」をもっているか
須賀しのぶ『また、桜の国で』(祥伝社、2016年)を読む。第二次大戦頃にポーランドに赴任した大使館員の姿を描く。ロシア革命によって成立したソ連、ナチズムのドイツ、南満州鉄道の経営権を手に入れた日本、日中戦争に深入りする日本、対立が深刻化する米英と日本、ドイツとの接近と大きく揺れる国際情勢を背景にして、翻弄されるポーランドと在ワルシャワ日本大使館員。これまで平板に国際的な力関係として受け止めていたヨーロッパ情勢に、そこに暮らしているドイツ系やスラブ系やユダヤ系ポーランド人と、ドイツ、ロシア、日本といった国と人との「かかわり」がもっている微妙な「友好的/敵対的/優越的/差別的」関係を織り交ぜて、丁寧に、しかし簡明に描き出すことに成功している。
2012/7/8に、同じ作家の『神の棘』のⅠとⅡ(早川書店、2010年)を読んだと、私は記している。そのときは「ミステリーとして読み流すには重いテーマ」と見出しをつけているが、ナチズムとカトリックの確執を「原罪」を介在させて描きとったと読み取っている。須賀しのぶはテーマに向かうに、まことに真摯なのだ。
今回も、かつて三度にわたって列強に分割され、三度目の分割が終了した1795年からやっと1918年に独立を回復したポーランドが、ナチスとソ連の不可侵条約締結の狭間において四度、国家消滅の危機を迎えるなかで、ポーランドを故郷とする人たちは何を支えにして、どう戦ったか、どう死んでいったかを主軸に据え、それにかかわることになった青年外交官は、「日本」をどう背負って人びとと向き合い、自らの立ち位置を定め、具体的な「かかわり」をもつに至ったかを、描きとる。その視線の真摯さが、「日本」という国境を関係の絶対性として保ちながら、しかし、「国際関係」において人と人とが交わることの「普遍性」へと到達するところまで視界にとらえていて、腑に落ちる読みごたえに仕上げている。
三度目のとき、分割下において起きた1830年の11月蜂起がロシアの大軍によって制圧された知らせがパリにいたショパンのもとに届いたとき、「反乱に参加できない苛立ちと敗北へ怒りが、一つの傑作を書き上げさせた」と記す「ピアノ練習曲、作品10、第12番ハ短調。世にいう『革命のエチュード』」を、須賀しのぶは、この作品の主題の象徴として何度か登場させている。いや、この作品の象徴というだけではない。ロシアはワルシャワの街に置かれたショパンの像をバラバラにして取り壊すことをしてまでポーランドを解体することに徹したのだと、登場人物に語らせている。つまり、「国を守る」というとき、人々の心中にある「核」は「文化」であるということを、著者・須賀しのぶはとりわけ浮かび上がらせている。「護るに値する何か」は人々の紡いでいる「かんけい」であり、「文化」である。ただ単に、「利害」ということでは集約されきれない「かんけい」が、果たして今、お前にとって「護るに値すること」になっているかどうか。私たちは「ショパン」をもっているか。そう問われていると、読みすすめながら繰り返し、また、読み終わってから心裡の奥にずしんと澱のように、問いかけが溜まっていることを感じている。
『神の棘』のように、(カトリックにいう)「原罪」という、日本に暮らす私たちには馴染のない「論題」に踏み込むのと異なり、今回の主題はたいへん平明に解き明かされ、描き出されている。筆が達者になったのであろうか。今年40代の半ばになる若い人が、腕をあげてくるのを感じるのは、愉しい。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿