2017年2月2日木曜日

脇道と見えることこそが本筋なのです


 貫井徳郎『空白の叫び』(小学館、2006年)上下二巻を読む。人を殺した三人の中学生の人生を描く。とりわけ優れた人物の造形があるわけでもなく、ミステリーとしての物語りも際立っているわけでもないが、ひょっとすると今風の(といっても十年も前の作品だが)若い人のシニシズムを描き出しているだろうかと思った。生きているのが苦であるという気配が、人を殺す出来事の前に、すでに裡側に堆積している。その在り様は哀切ですらないというのが、私の読後感。


 山の行き来に、保坂和志『地鳴き、小鳥みたいな』(講談社、2016年)を読む。エッセイ風に記された短編集。「笛吹川と釜無川が合流してちょうど富士川になるあのあたりに」と書かれた一文を読みながら、ちょうど私は身延線の「特急ふじかわ」に揺られていたのでした。

 この作家は、20年ほど前に芥川賞をもらっているが、そんなこととも知らず、知っていたからといってそれが何だと気にも留めなかったであろうが、何であったか、エッセイのような、創作論のような、小説のような、ああでもないこうでもないというとりとめもないことをだらだらと書き綴った、読点ばかりの文章を読んで、なんだこいつ私と似た「世界と自画像の描きとり方をしている」と、以後少しばかり気に留めていた。

 もちろん私より14歳も若いから人の輪郭はずいぶんと違うし、好みも人柄も隔たりがあると思うが、芥川賞をもらっているからか付き合う人もそれなりに高名な人が登場していて、それはそれで人との付き合い方を浮かび上がらせていたり、関心の焦点が次から次へと移り変わっていって、へんなのと思ったりヘエと感じたりして、興味は尽きない。

 その短編に一つ「彫られた文字」にこんな一節があっ手、面白い。

《「この本では脇道と見えることこそが本筋なのです」/とカフカの登場人物たちがたいていみんな繰り返すこの論法のように、というかこの本には脇道と本筋のような保守的・権威主義的な二分法はない、私はそろそろこの本それ自体を離れて勝手な思い込みを書いているのかもしれないがそういうことだ、この本には論者としての慎重さ、ということは臆病さがない、この本を読んでいると明治末から大正時代というのはみんなが街頭で演説する、心が沸き立つほど騒然とした時代だった。》

 何の本のことをとっかかりにして保坂がこう述べたのか、読み終わった私はすっかり忘れているが、この一節の謂わんとしている趣旨は(私の内心では)ヘエの部類だ。山歩きにくたびれた電車の中で、読むにはちょうど良い。「脇道と本筋という二分法を権威主義的」と片付けるところは、わが身に引き寄せて読んでしまう。

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