2017年2月12日日曜日

欲望は抑えられないか(2) 我が「かんけい」の然らしむる処


 ずいぶん間が空いたが、1/10の「欲望は抑えられないか(1)「制御可能」の体幹を鍛える」の(つづく)を受けて書き記す。

 「欲望は抑えられるのか」と論題を立てるとき、「その欲望」を保つ者の内側から立てられているのか、「その欲望」を保つ者の周辺にいて、かかわりをもつ外部から問いが立てられているのかで、応えるスタンスが百八十度違ってくる。まず、どちら側でもない「欲望」そのものからみると、次のようなことが言える。


 「欲望」が論題になるとき、たいていそこでイメージされている「欲望」とは自然的欲求に基づいて発生する衝動的自己拡張志向を指している。むろんどんな「欲望」も、なにがしかの自然的欲求に基づいているには違いないが、たとえば「リビドー」が一概に性欲に集約されてイメージするわけにはいかないように、「欲望」は、いわば人間の生存のエネルギーの根源を指す言葉でもある。性欲も食欲も、物欲も権力欲も、危険な冒険志向も安定・安全志向も、競争心も闘争心も、向上心や科学的探究心も遊興の思いも、興味関心の発露も、ことごとくが「欲望」とむすびついている。だから、「欲望は抑えられるか抑えられないか」と問うこと自体がほとんど意味をなさない。人は生きることが正しいのかどうか?  と問うているようなことなのだから。そのものへの問いは、「ものそれ自体」を探り当てようとするように、とりとめがない。「かんけい」的に見るほかない。

 「欲望」を保つ者の側から発せられた問いであれば、「抑えられるか」というのは愚問である。「欲望」が感ぜられた時点ですでにそれは「欲望」である。とすると問いは、「欲望は(社会的に)発現を抑えられるか」でなければならない。あなたはどう応えるか。
 「抑えられる」というのを自制心と名づけているが、それは心の習慣(良心ともいう)とそれを育んできた社会規範と向き合っている場や人との「かんけい」によっていかようにも変容する。心理学でいう「欲求への適応」と重ねてみると「合理的解決」と「攻撃・近道反応」のほかに「防衛機制」というのもあると整理されている。なにをもって「合理的解決」と呼ぶかはおかれている社会関係によって種々道はあろうが、近ごろは、最高権力者の某国の大統領さえも「攻撃・近道反応」をとっていて、その国の半ばの人びとの喝采を浴びているから、ヘイトスピーチだって「合理的解決」に入れられるかもしれない。ただ、「防衛機制」と謂われる「抑圧/合理化/同一視/投射/反動形成/逃避/退行」も「自分を守ろうとすること」と考えれば、適応のかたちであって、それがいいか悪いかは一概に言えない。さらにまた「置き換え」と謂われる「代償/昇華/補償」も、社会的な(外的な)抑制を内面化したかたちを表現したものであるから、自制心のひとつの形と言えなくもない。つまり心理学に謂う「適応」の何れにしても、「欲求」の社会的表現形態を言い当てて分類しているのであって、それを「抑えている」かどうかとは少しずれている。まして、「欲求」の足元にある「欲望」は発生の次元が「欲求」とは異なって人それぞれが持つ内面の(社会的に形成された)幻想に依拠しているから、単純な「適応」で消してしまうわけにはいかない。では「欲望」は開放/解放されてきたかというと、そうではない。欲求と同様に、社会的規範によって、あるいは法的規制によって、あるいは経済的・社会的・物理的条件によって欲望は抑えられてきた。充たされない欲求は、たいてい捨て置かれてきた。それは「適応」の何処に属するか。我慢したのである。それは社会的には、鷲田清一の表現を借りれば「制御」されてきたのであった。

 それが「制御不能」になっていると鷲田清一が嘆いたのが、今回論議(1/8)の出発点であった(本ブログの掲載は1/9、1/10)。人びとの暮らしのあれやこれやが市場に依存することによって「待ち受け」態様になり、いわば自律性を失っているという(鷲田の)指摘が、高度消費社会を否定するものとして受け取られ、「欲望は抑えられるのか」と(kさんの)反撥を受けたのであった。その裏側には、欲望を開発・開放することを積極的に進めてきた資本制市場経済の体質が想定されている。鷲田が欲望の保持者の側から事態をみていることを見落としてはならない。

 すでにみたように、じっさいに「欲望の発露」はつねに開放されてきたわけではない。むしろつねに「制約」を受けてきた。自然的な制約、社会的な制約、関係的な制約、時間的な制約、その他もろもろの条件によって、つねに「抑えられてきた」。「欲望の発生」自体は抑えられていない。もしその根源の「リビドー」に焦点を合わせて世界のすべてを切りとれば、つねに欲望は開放を求めて人類史はかたちづくられてきたともいえる。とすると問題は「欲望は抑えられるか」と問うことではなく、「欲望を開放することはつねに正解か」と問うべきではないか。

 いうまでもなく、こんな一般的な問いを受けたら、「つねに正解であるわけがない」と応えるしかない。つまり「制御可能かどうか」と問うているのだろうが、予定調和的にすべたが充たされるというのでもなければ、(どの次元かで)制御しないことには社会が成り立ちゆかない。そのとき鷲田は一人の消費者市民として考えている。つまり、資本制市場経済をどうしたらいいという資格を持っていないから、せめて自分が「制御可能」な立ち位置を見極めようと問題提起したのであった。考えようによっては、「我慢する」ことも含まれる。「欲望」がつくられ操作され、外から与えられていると見極めると(己の裡側から)「その欲望」がコントロールされていくことを感じることができる。つまり己の「欲望」がどうかたちづくられ、どう己の裡側で醸成されて形を成し、外界へ向けて発露されようとしているのかを「世界」に位置づけてみてとることがなされると、途端に自生的根源がおぼろになり、世界のなかでのマッピングの然らしむる「抑制」を受けて、そこそこのところに落ち着きを得る。単なる我慢とも違う。心と体の生活習慣と切り結ぶ「現実のかんけい」の然らしむるところもある。

 このうちの「現実のかんけい」を「協働」というかたちでイメージしたのが鷲田であった。そのコミュニティのイメージが卑小かどうかよりも、私たち自身がどう《心と体の生活習慣と切り結ぶ「現実のかんけい」》をかたちづくってきているかをあらためて考察して、自律性を志向しようという彼の提案を、私は一蹴することは出来ない。じぶんが手に触れる「かんけい」のなかで、基本的な「暮らし」をかたちづくっていく。その独立不羈の志の旗をあらためて身の裡にうちたてたいと思う。

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