2017年2月26日日曜日
「普遍」は陽炎
むかしハンナ・アーレントがギリシャ民主主義は普遍的なものではなく(ヨーロッパにだけ通用する)特殊なかたちだとみているという「解説」を読んで、とてもアーレントに親近感を持ったことがある。アーレントは、ヨーロッパ標準を世界標準とみなしている知的世界の常識を覆そうとしていたのだと思う。そのようにして、アジアその他の地域にギリシャをモデルとする民主主義が「適用」されるような発想を批判していた。親近感の根っこには、ヨーロッパ学を学び取ることが知的な第一歩と教え込まれてきたことへの苦痛があった。そのときには気づかなかったが、そもそも「普遍」という考え方自体がどうして「特殊」よりも優れていると考えるのか、私は納得できないできたのだ。
逆に言うと最初に、普遍的な言説・ことが特殊な言説・ことよりも優れているという「刷り込み」があった。そうすることによって、(私の知らないヨーロッパ学という)超越的な世界が屹立していることを(カフカの城のように)感じとり、何よりもまず、ひざまずいて「学ぶ」ことを己に命じた。良い生徒であったと言える。やがて、「学びて思わざればすなわち罔(くら)く、思いて学ばざればすなわち殆(あや)うし」という漢籍からの知恵がときどき胸中に浮かび上がるようになり、ヨーロッパ学に拝跪している自分自身を対象とするようになり、ヨーロッパ学がもっている超越的な視点が己にとってどういう意味を持つのかと考えはじめるようになった。
こうして(ヨーロッパ学に謂う普遍を)自己を超越する視点として手に入れ、それによって自己(の感性や思考)を対象化することができていたのだと受け止めるようになった。ということは、「普遍」というのは仮構された視点であって、それ自体が優れていることでもなく、それ自体を認識できることではないと言える。いわば「己」という特殊存在を「世界」に位置づける媒介項として仮構された視点に過ぎない。自己を世界にマッピングするというらしいが、それは世界から自己の輪郭を描き出す/取り出していく過程でもあった。
2014年に木田元という哲学者がなくなって河出書房新社の「道の手帖」シリーズから『木田元――軽妙洒脱な反哲学』のなかで、ハイデガーのある講演を紹介している一文を目にした。
《〈哲学〉ということばは、ギリシャに生まれ、ギリシャにしか生まれなかった。…〈哲学〉は、このギリシャ語の響きとそれによって名指される特殊な知のありかたを受け継いだ「われわれ西洋=ヨーロッパの歴史のもっとも内的な根本動向」をも規定することになった。逆に言えば、「西洋とヨーロッパは、そしてそれらだけが、そのもっとも内的な歴史の歩みにおいて根源的に〈哲学的〉なのである」。》
そういえば、ハンナ・アーレントはハイデガーのお弟子さんである。ハイデガーには、私はとても歯が立たなかったから、彼がそのような立ち位置を保っていたことを全く知らなかった。だがこうして、ハイデガーやハンナ・アーレントにアジアのことはアジアで考えなさいよと突き放されてみると、心もちがずいぶん軽くなる。「わからない」ことをわからないとはっきり言える。「わからない」のは俺がバカだからと(そういう面も、じつは、それなりにあるのだが)閉じこもって悩む必要がない。「わからない」のは、どこがどうだからなのだろうと、考えをすすめることができる。
木田はデカルトの言う〈理性〉に触れて、
《…〈理性〉はわれわれ人間のうちにあるが、なにか超自然的なもの、つまり神の理性の出張所とか派出所のようなものとしか思えなくなってきた》
と感想を述べている。つまり、世界を神が創造したという前提をハイデガーの言う「内的根本動向」としているものにしかわからないことと、見切っているのである。〈理性〉(イデア)もまた、ヨーロッパ学の「普遍」。そう(刷り込まれて)思い込むことによって私も、ずいぶんと、感性・感情や身体性との齟齬に「思い悩んできた」。まあ、(刷り込まれたと言っても、自分で)勝手にそうしたわけだから、プラントンさんやデカルトさんのせいにするわけにはいかないが、やっとその〈理性〉にせよ「普遍」にせよ、仮構した「媒介項」に過ぎないと見て取ることができるようになってはじめて、「学びて思う」ことができるようになったと感じている。
いまは「普遍」的な言説が「特殊」な言説よりも優れていると思うこともなくなった。いやそればかりか、モノゴトとその関係について「普遍」的なこととして展開されている言説は胡散臭いと感じるようになっている。私たちのことばは、それ自体が一般性を持っているが、それに乗せて話されていることは、徹頭徹尾「個別特殊」なコトゴトであり、それでいいのだと考えている。
言葉は「特殊」なこととして放たれる。それを受け止める人々が(その個々の内面にしたがって)種々さまざまに受け止めていくとき、「普遍」のおぼろげな影が立ちのぼる。それは陽炎のようにとらえどころがなく、発信された言葉の特殊性と受信する言葉の特殊性とがそれぞれの内心において価値づいているばかりなのだ。それはまさに、わが身一個の実存的ありようと重なる。
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