2017年2月10日金曜日
プロってどういうこと?
真保裕一『レオナルドの扉』(角川書店、2015年)が図書館の書架にあるのが目に留まり、手に取った。読みながらスタジオジブリの映画『天空の城ラピュタ』であったか『ハウルの動く城』であったか、空に浮かぶ脚漕ぎの舟が頭に浮かび、へえ、この作家はこんな作品も書くのだと思いながら読みすすめた。小説には珍しく「あとがき」がある。それをみるとなあんだ、この作家はアニメ出自だったんだとわかった。私が最初に目にしたこの作家の作品は『ホワイトアウト』だったから、まったく彼のアニメがらみは知らなかった。そうした今ふりかえってみると、この『レオナルドの扉』が『天空の城ラピュタ』などをイメージさせたのも、たぶん文体からくる。彼自身が、絵になるようなイメージを思い描きながら、それでいて物語りが勝手に展開してしまうような運びを愉しんでいるように思えたのだ。荒唐無稽ってのもいいねえ、こういうのって、作家冥利に尽きるんじゃないか。
保坂和志の『試行錯誤に漂う』(みすず書房、2016年)を読んでいたら、プロのピアニストにとってはコンサートが仕事なのではなく、毎日いつもピアノを弾くことだと書いてあって、面白いと思った。グレン・グールドを思い出した。このピアニストはコンサートを開かず、レコーディングするときにも鼻歌のようにハミングしている音が入っている。まさに彼のプロとしての面目躍如ってところですね。
そうだ、思い出した。むかし「朝まで生テレビ」という番組に出たとき、同席の大島渚に「プロ教師って何なの?」と問われたことがあった。彼は、「プロ教師の会」という看板を掛けた高校教師風情が生意気なことを言ってやがると腹を立てていたに違いない。(番組が終わってTV局の人が「事前に大島さんにも説明をしていたのですが、行き届かなくてすみません」と謝ってきたが、私はどうしてあなたが謝るの? と変な感じがした)。とっさに「おとなを代表して(生徒たちにむかっている)教師ってことです」と応えたのだが、あたかも大人の「一般意志」を勝手に代表していると思い込んでいるルソーって感じだなあと、違和感というか、どこか自分自身を誤魔化している感じが残っていた。それが、保坂和志のこのひとことで、ジグソーの最後の一片がすっぽりとはまったような感じがする。つまり「プロ教師」ってのは(そもそもは全国向けに出版物を出すにあたって「埼玉教育塾」というローカルな名前ではよくないのでと、編集者が名付けてくれたのが「プロ教師の会」であったのだが)、いつもいつも教育のことを考え、生徒に向き合って逃げない教師とでもいおうか、そういう日常的あり方を持っている教師をいうのだと、初めて自分でも納得する答えを見つけた気分だ。まるで自分がグレン・グールドにでもなったように感じる。
もちろん仕事を退職してからは「プロ教師」としてのありようを片付けた。その後はプロの自然観察編集者もどき、それが終わってからはプロの山案内人もどき、さらにその後はプロの年金生活者、年を取ってからはプロの高齢者として過ごしている。総称するなら、プロの人間存在とでも言えようか。うん、それはいい。ただ現実存在というだけではない。「私」が輪郭を描きとろうとして「世界」を選り分けている姿、根柢へ視線を向けつつ叶わず、世界に己をマッピングしながら果たせない、そういう人生にひたすら向き合って考えつづけている徒労。そんなところですね、プロの人間存在って。もちろんこだわってはいない。そういう境地にだいぶ近づいている。それが涅槃とか悟りと言えるのかどうか、そいつはまだ、わからない。
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