2017年2月27日月曜日
認知症の内と外
久坂部羊『老乱』(朝日新聞出版、2016年)。医者の書いた認知症の物語りとみて、読んだ。妻に死なれて独り暮らしの78歳、己の危うさに当人がうすうす気づきつつある。ご近所に住む息子一家の嫁がそれなりによく面倒を見ている。目配りができるから、義父の暮らしの些細な異変にも気がつく。それが事故や事件に結びついたときに降りかかる負担が(自分たちを含めた)暮らしを一変させる「報道・情報」にも気が回る。つまり、世の子供家族の平均的な姿を取り出して、主題は「認知症」である。
著者の久坂部羊は作家で医師。いまチェックしてみたら、2013年に同じ作家の『神の手(上)(下)』(NHK出版、2010年)を読んでいる。終末期医療を扱ったもの。「過剰延命治療はごめんだと具体的に感じた」と表題して、このブログに私は印象を記していることも、あらためてわかった。何かを読んだという「印象」は残っているが、はてどんな作品だったかは、すっかり忘れていた。そういう意味では、私も「老乱」の主人公がこの作品に登場したころの「己の危うさに当人がうすうす気づきつつある」状態にだいぶ近い。
まだらボケと謂われる認知症の進行の様子を、当事者本人の内と嫁の眼という外から坦々と丁寧に描いて、「人という存在」が「かんけい」を紡ぎ感じて受け止めている根っこのところに降り立っていく過程が浮き彫りになってくる。医師としての知見であろう、まだらボケの、正気と妄想との端境が定かならぬまま、当事者の内面に推移する感触が描き出されている。突き詰めて読み取れば、たとえボケても、「かんけい」が醸し出すアウラ(aura)は感じとられていると、読める。wikipediaは「オーラとは、生体が発散するとされる霊的な放射体、エネルギーを意味する」と個体の醸し出す「気配」のように規定しているが、「なおオーラという言葉は、「微風」「朝のさわやかな空気」を意味するギリシア語 αὔρα(アウラー)、「風」「香気」「輝き」などを意味するラテン語の aura(アウラ)に由来する」と付け加えている。「かんけいが醸し出すアウラ」は、むしろこのオーラの原義に近い。「空気」と言ってもいいのだが、「KY」などと流行になったイメージがついて廻ってあまりいい印象が持てないので、ラテン語を使わせてもらった。
久坂部羊は、この「かんけいのアウラ」が落ち着くところに人生の着地点をおいてみている。
《みんな寝静まったようだ。何も動く気配はない。/ふと意識が戻ってくる。ばらばらになっていた自分が、遠くからもどってくる。/幸せな一生だったよ。/後頭部が熱くなり、どこかに吸い込まれそうになる。眠りに落ちる直前のまま、脱力している。すべてを委ね、いっさいの抵抗を捨てて、なすがままになる。畏れも不安もない。苦痛も嘆きも、喜びも満足さえもない。曖昧模糊の壮大な無に使づく。》
そうなのだ。死というのは「ばらばらになっていた自分が、遠くからもどってくる」ことなのだ。成長しておとなになって生きるということは、生まれ落ちたときにはまるごと全部が「じぶん」であったのに、母親と自分を分け親と子に分かれ、社会とも分節化して一人前になり、世界を分節化してモノゴトを学んで知恵をつけ、その断片を切り売りして暮らしを立ててきた。まさに「ばらばらになっていた自分」であったのが、「遠くからもどってくる」。ふたたび、分節化する前の(ヒンドゥ教に謂う)混沌の海のように世界に溶け込んで一体となる。曖昧模糊の壮大な無というのは、分節化された地点からみた混沌の海である。それは自然と融け合って一体になった「じぶん」ともいえる。「幸せな一生だったよ。」という一言は要らないと、私は思う。それすらもたいした価値をもたないこととして呑みこんでしまう。そこにアジア的というか、仏教的な宇宙観を感じることができる。自然内存在として生きてきた「じぶん」が「自然にかえる」、それが死である、と。
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