2017年2月15日水曜日

第24回aAg Seminar ご報告 (4)我が人生を振り返るSeminar


 1657年に130万人程度であった江戸の人口は、江戸の終わりごろまでほぼ横ばいであったと言われている。それが、1920年の初の国勢調査が行われた時点(東京)では約370万人、三倍になっている。1930年には540万人、1940年には740万人になっている。10年ごとの国勢調査結果では1.5倍のペースで膨れ上がっている。これは日本の産業の近代化が急速度で進み、東京へ人口が集中していっていることを示している。この人口集中は戦後もつづき、2010年には1300万人、江戸のころの十倍。これを世界的な大都市になったと喜ぶのか、どうしてこんなことになったのかと嘆くのかは、何処からみているかによって違うであろう。


 思い出した。日本経済が大はしゃぎしていた1980年代の前半に、小松左京が『首都消滅』という小説を書いていた。筋書きはすっかり忘れたが、首都圏をすっぽりと「雲の壁」が覆って周囲から遮蔽され、あたふたする首都以外の日本を描いていた。記憶を確かめようと図書館から借りようとしたら、まず小説のタイトルが『首都消失』。2016年の11月に城西国際大学出版会。ン? 「SF文学のデジタルアーカイブの手始めに出版した」という趣旨の説明がつけられている。1983年から新聞小説として連載し、1985年に徳間書店から出版している。この小説の設定であたふたしていたのは、日本の産業や行政などの統治機構であった。それを上から描いたのではなく、首都が消失したために一気に産業や金融、交通・通信の中央集権的姿が浮き彫りになる。つまり一極集中のもたらす「困難」を描き出して、その後の首都機能の移転・分散論議の切っ掛けになったのであった。

 経済が好調であったから、アクセスに東京から30分という限定を設けて「首都圏」の各地へ東京にある行政機能を分散する構想が提起された。たとえば当時国鉄の大宮操車場の跡地につくられた「さいたま新都心」には、鉄道の駅が新設され首都高速道路の延伸し、関東圏の支分局が移設され、2000年に街を開いた。その後バブルがはじけ、失われた十年、二十年が長引くにつれて首都機能の移転・分散論議は蒸発してしまい、絶対的人口減少を目の当たりにしながら、いま再び、東京への人口回帰が始まっている。これをヨシとみるかアシとみるか。そこに視点を据えるかによるが、私などは、人の暮らしのありようという一点で、集中どころか、ほんとうの地方分権を実現しなければならないと思うようになった。今の首都圏一極集中は、体制依存によって成り立つ消費者としての暮らしでしかない。要するに自分の手に触れてモノゴトを左右することの出来る自律的な、独立不羈の「暮らしの現場」こそが、人が生きるうえで欠かせないと考えるからである。

 江戸の町づくりの延長で、山の手の話が出された。
 ひとつ。山の手の奥様方の「ざあます」言葉は、江戸の花街の花魁言葉に由来するのよ、とmdさんが指摘する。そうだよ、花街の女たちはほとんどが田舎の出身であったから、お国訛りに難儀したので、それを隠すために花魁言葉が生まれたとだれかが時代小説の知識を披露する。つまり江戸や東京は、田舎からの出身者が寄り集まって発展してきたものであって、そこに「何かすばらしい権威がある」かのように考えるのは、突き詰めてみれば、政治的権威、経済的権威、文化的権威など、人の性とでもいうような異質なことへの強い興味関心がなせる傾きであって、それは自身を支える(アイデンティティなども含めた)現在から飛翔しようとする衝動がなせるコトである。自身の「現在」とその衝動の吟味をしないで、ただその傾きの延長上に「なにか」があると期待するのは、笑止千万と思う。

 もうひとつ。山の手のひとつである世田谷の土地処分については、厳しい条例による規制があると、これもmdさんの指摘。いまの広さの分割を認めないとなっているそうだ。

「えっ、ということは相続のときに分割できないってこと?」
「そうです」
「とすると、金持ちしか住めないってことになるよ」
「そうです」
「じゃあ、古い日本の住宅建築を残そうというコンセプトがあるわけ?」
「いえ、そういうコンセプトはありません。建物は高さ規制さえ守れば、てんで勝手に作っても構わないのよ。要するにお金持ちが住むところって環境をまもっているわけ」

 古い町並みを残そうという(例えば)西欧の建築規制をみていると、高さばかりか、外観を変えてはいけないなどの細かいところにまで行き届いている。だが金持ちだけが住めるというようなコンセプトは「ゲイティッド・シティ」のような、すべて私有の共同管理地というコミュニティとしては知っているが、そうか日本にもそういうかたちで金持ちたちの「文化」が受け継がれているのか、と思った。金持ちたちだけしか住めないというのがどういう「文化」かよくわからないが、日本的建築というような「文化」に関心があるわけではないというところが、いかにも「情況適応的な」いい加減さにみえて、そうか日本文化ってそういうことだったんだと思える。ゆくかわの流れはたえずしてしかももとの水にあらず、というわけであれば、「護る」べきことなんてないと言っているようなもの、せめて自尊心だけと考えるようになっても不思議ではない。

 講師のM.ハマダさんは「未来の江戸・東京を探る」の一つとして「江戸城の天守閣を再建する」と提案する。
「どうして?」「誰が住むの?」と質問が飛ぶ。fmnさんが割って入る。
「天守閣って、誰も住まない。倉庫、戦時に必要な武器や備蓄食料をおいていたところなのよ。松本城でも熊本城でも、天守というのはひとつの象徴。江戸城にも東京の象徴としてあった方がいいわねえ。いまはコレってものが何もないもの。」

 講師はさらに「新豊洲市場を中止して、跡地に120階建てのビルを新築し、IR(統合型リゾート)ビルとする」とも提案する。
「120階って、アジア一とか、何か意味があるの?」
「ない。それくらい高いビルってこと。カジノをはじめとするあらゆるギャンブル場とするってこと」
「カジノ法ってのは、ヤクザの利得を排除して国家が占有しようという法律でしょ。そんなことに私らが肩入れすることはないよ」
「競馬があればいいよ」

 さらにさらに講師は「武蔵の国の復活」と提唱し、「埼玉県全域、横浜、川崎と合併し新州?をつくる」と提案していたが、これには時間がなくて話が及ばなかった。だが後で考えてみると、小松左京の「首都消失」で「雲の壁」に覆われる範囲は東京を中心とする30km圏。国道16号線の範囲がすっぽりと含まれている。むろん「さいたま新都心」も含まれる。南西は藤沢、西は立川あたりがかろうじて外側になっている。つまりM.ハマダさんの提唱する「新州」がすっぽりと機能停止になったらというSFである。むろんその頃と決定的に違うのは、通信の発達。モバイル機能もそうだし、クラウドもあるから、バックアップを取るなりしていればdataが消失することはなくなる。それだけ機能麻痺は軽減されるかもしれないが、統治的な正当性がどうなるのか、面白い問題ではある。

 私たちの時代はそろそろ終わりになっているが、半世紀以上も首都圏に住みながら、あまり江戸や東京を知らないということに、我がことながらちょっと驚いている。いったい何を思って、半世紀以上もこの地に暮らしていたのか、あらためて我が人生を振り返るSeminarであった。

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