2017年2月19日日曜日

批評と感想、文学と読み物


 今月の「ささらほうさら」の問題提起者はKtさん、テーマは「小説とイデオロギー」。加藤典洋が『永遠の0』を批判しているのに噛みついた。出典は加藤典洋『世界をわからないものに育てること』(岩波書店、2016年)。私はこれを読んでいません。Ktさんは、加藤の文章を引用した後で、こういっています。

① 《加藤は、『永遠の0』は、「なかなかに心を動かす、意外に強力な作品と、そう受け止める方がよいのではないかと感じた」と、多くの読者、観客の存在を認めざるを得ないような物言いをしているが、上記のように認めていないのが本心である。》


 引用された加藤の文を股引きしておきましょう。

② 《自分の右翼的なイデオロギーを入れれば人を動かすことが出来ない。入れずに、彼は感動的などちらかといえばむしろ反戦につながる物語を書いたのである。/今まではある作品を読んで「感動」したとしても、また通り一遍に「反戦的」だと読めると受け止められたとしても、もうそのことは、その作品が反戦的で、心を動かす作品であることの証明にはなりません。なぜなら、人を感動させるために「反戦小説」仕立ての方が都合がよいとなったら「イデオロギー」抜きで、というか、(自分のものでない)「イデオロギー」までを(作品用に仮構して)読者を「感動させる」ための道具とする新しい種類の作家たちが現れてきているからです。》

 ①の末尾で「上記の」と書かれているのが②の文です。①でいう(加藤典洋の)「本心」は、「なかなかに心を動かす、意外に強力な作品……と感じた」ことではない(それは嘘だ)と言っているのでしょう。だがそうか? ②に表現された加藤の受け止め方は二層になっています。ひとつの層は「感動的である」こと。もうひとつの層は、そう(感動させようと)操作する意図のもとに借り物のイデオロギーを「道具とする」創作法について。その二層の間に、かつてイデオロギー的に読まれて「反戦的」であることが「感動を誘った」時代もあったかもしれないが、それはもはや無効だよとみている時代感が挟まっていると読めます。つまり加藤も、イデオロギー(操作)的な読み取り方で感動を誘おうというのは手が古いと言っているのではないか。言葉を換えていうと、前者の層は「感想」です。後者の層は「批評」への入口を示している、と。つまり感想と批評は違うぞと、文芸評論家・加藤の面目を施そうというところなのではないと、私は読み取りました。

 では、《(自分のものでない)「イデオロギー」までを(作品用に仮構して)読者を「感動させる」ための道具とする新しい種類の作家たち》というのは、何を言おうとしているのでしょうか。読んでもいないのに口を挟むのは不遜ですが、(たぶん)『永遠の0』の作者・百田尚樹が日ごろ保守派のイデオローグのように振る舞っていながら、「感動的な物語」として反戦的な小説を書き上げたことに憤りを感じたのではないでしょうか。Ktさんが言うように「作品をイデオロギーで判断する」というよりも、先の戦争への反省もなく「反戦」を語る語り口に一言文句を言わないではいられなかった、そんな加藤典洋の気分があったように思いました。

 私は文芸批評を業とするものではありませんから、物語りとしてつくりだされたものが文学世界にどう位置づいているかに言い及ぶつもりもなければ、そこに触れる蓄えもありません。ただひとりの読者として作品と向き合うばかりなのですが、Ktさんの向き合い方とちょっと違うのは、百田の作品を受け止めるときも、それに「感動」したとすれば、なぜ、どこに自分は「感動」したのだろうと解析する方へ視線が向かいます。Ktさんは、加藤典洋の読み取り方を非難しているのですが、ではKtさん自身が百田尚樹の作品のどこになぜ「感動」したかは、まったくと言っていいほど触れていませんでした。

 もちろんそう言った読み方がいけないなどとお説教をしているのではありません。読み物として「面白かった」と思えば、それはそれで、作家としては冥利に尽きるでしょうし、読者としてもそういう時間をもつことができて、癒される心もちになることもできます。娯楽としての、慰安としての読書というのもアリですから、私と違うなあと思っただけです。

 じつはこの『永遠の0』を読んだことすら私は、忘れていました。図書館からカミサンが借りてきているのを見てチェックしてみたら、《2010/10/9完結しないが、思いをはせるパプアニューギニアの戦場》と題して、このブログで感想を記していました。そして、《……手軽に読み始めた。……今回やっとそれ(先の戦争を見る我が視点)を手に入れたという気がしている。》として、戦争という災厄から逃げ回ることしかできない庶民の視点に立つことをしてなかった自分を切りとっています。つまり私は、(いつでもそうですが)自分の輪郭を描き出すために 本を読んでいるんだなあと、思い知ったわけです。そういう読み方をするときに、作品の善し悪しという評価よりも、じぶんが面白いと感じ、へえ~と思い、こういうセンスは自分はもっていなかったなあとか、自分はそうは思わないなと思ったとき、それは何故なのか、どうして自分はそう感じたり思ったりするのだろうか、と我が身を振り返ることが「私の輪郭を描きとる」ことなのです。ですから、作品の出来具合や評価はどうでもよくて、そこで取り上げられているモンダイが私の感性や思索に突き刺さってくるかどうか。それだけが関心の対象ともいえます。つまり、加藤典洋が、「作家のイデオロギーと作品」ということをテーマとして百田の作品を読み取っているのだとしたら、それはそれで加藤の読み取り方であって、それが私の輪郭をかすらないのであれば、放っておけばいいことになります。

 ということは、Ktさんが「作品をイデオロギーで判断するつまらなさ」と加藤典洋に腹を立てたのだとしたら、どうしてKtさんは加藤に腹を立てたのだろう、百田尚樹のイデオロギーにはまったく同感しないKtさんがどうして、加藤同様に『永遠の0』に「感動」を覚えながら、そのことの解析にさらに踏み込もうとしないのか。それが不思議でした。Ktさん自身の作品評価を取り出して、それの何処に「イデオロギー的な評価」が必要なのかと居直れば、十分加藤の論述と拮抗できたのではないかと、加藤の文章を読んでもいないのに思ったのです。

 Ktさんはいわゆる団塊の世代。直に戦争を知っているわけではありません。あの頃はほんのちょっとした歳の違いが見てとっている世界の違いになりました。だから私とは大いに「戦争」の受け取り様が違うと思います。その辺の言葉を交わすことができれば、面白かったかなあと改めて思うのでした。

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