2017年2月20日月曜日
批評と感想、文学と読み物(続) 断裂する「世界」
昨日の話しをにつづけたい。今月の問題提起者のKtさんの語り口がどこかしっくりこない。
《何に興味・関心を持つか、書き手のイデオロギーだけで判断すべきでない。》
《人それぞれに関心、感動の要因がある。大きいのは、その作品の出来である。》
《質の高い作品であれば、右、左関係なく評価するし、感動するはずである。》
「判断すべきでない」――なぜ? なぜそう一般的に言えるのか? えっ? おまえならどう言うの? 私ならきっと、「判断すべきとは思わない」というだろうなあ。Ktさんは、どこかに「普遍的な基準」を想定している。ここでいう「普遍的な基準」とは、この言葉を聞く人たちも「同じように思うに違いないという確信」ではないか。その「確信」をかぶることによって、じぶんの内面に踏み込むことを避けているのではないか。養老孟の「バカの壁」ではないが、「確信の壁」はじぶんを守る。他の人たちと同化することによってわが身に及ぶ危険を回避している。じぶん固有の価値に踏み込めば、それを解析して(問題提起者としては)説明しなければならない。それは、なぜじぶんがそのように考えているのか、なぜじぶんがそう感じているのかにいったん降りたって、ふたたび他人に伝わる言葉にしなくてはすまない。
「その作品の出来である。」と言い切ることを、私はしたことがない。人がじぶんの裡側に生起する「感動」を「作品の出来」という外部的なことに転移して考えるのは、「じぶん」と「作品の出来」とが同じ地平に並び立っていることを前提にしている。私にはそれはできない。まず、作家が何を意図してこの作品を書き上げたのか「わからない」。私がそれを(同じ感覚でもって)受け止めているかどうかに自信がない。私が学生の頃は「行間を読め」とよく叱られてきた。それは、屹立する外部世界のことを何も知らないと言われていると思ってきた。事実知らなかったわけだが、その「外部」とは、その作品が提示されている「時代」のことであり、「世界」のことであり、その作家の抱懐している「宇宙」のことだとばかり思ってきた。つまり、その作品の「背景」を読み取れ、読み込めといわれて、己の無力をいつも感じ続けてきたことを思い出す。つまり、「作品の出来である。」といえるような読解力をじぶんが持ったと感じたことがないのである。だからここでも私は、「じぶんの感動」がなにゆえに生起したのかと、じぶんの感性の根拠に視線を向ける。
そうすると、じぶんの感性や思索をかたちづくってきた「自分の来歴世界(の断片)」が浮かび上がる。あくまでも「断片」である。じぶんがいかに親や兄弟や友人たちやその大勢の周辺の人たちを模倣し、叱られ、嗤われ、揶揄われることを通して「じぶん」をかたちづくってきたかが、如実に浮かび上がる。たいていは適応しようとしてきている。高松から岡山へ越してきたために方言の違いもあって、他人との違いをいつも自覚させられていた。中学生になってからは独りいることも少なくなかったが、孤立していたわけではない。ほかの人とつるんでいないと不安であるとか寂しいという感性を持たなくてもよかったのだと、いまになって思う。それほど付き合いが悪い方ではなかったと思うが、付き合う余裕はなかった。たぶん兄弟がたくさんいたことも背景にあった。それより、友人とつるんで遊ぶほど暮らしに余裕がなく、家に帰れば親の仕事の手伝いをするのが精いっぱい、本を読んでいるときは独りでいることを許容されていたからではなかったかと思う。どちらかというと、独りは心地よかったのである。と同時に、中学高校の頃は、孤高とでもいおうか、皆と違うことにちょっとした誇らしさも感じていた。何も誇らしく思う根拠はなかったにもかかわらず。
それが大学に入ってみると、じぶんが凡俗であることにしばしば打ちのめされた。「世界」を知らないことが一番大きかったであろう。その「世界」とじぶんとの位置付き方もわからなかった。群盲象をなでるごとく、「世界」を撫でていながら、じぶんの感性には届かない、隔靴掻痒の思いをしていたのであった。もしこれが軽く乗り越えられていれば、私は学問の世界に飛び込んで己を充たしていたかもしれないと、思ったことがある。だが超えられなかった。タクシーの運転手をしながら哲学をしていると評判の研究者がいたことも、心裡に刻まれて残った。後でタクシー運転手というよりは植字工として身を立てていたとか、哲学者というよりは言語学で評価が高かったと知ったのだが。在野の探究者というポジションが、どことなく「凡俗」である私の身の丈に合っていると感じていたのである。
話がそれているように思うかも知れないが、Ktさんのように「普遍的な基準」を身の内に立てるというよりも、いつしかわが身にうち立てられている「普遍的な基準」を崩すことに、大学卒業後の私の振る舞いは注がれたと、今になって思う。当時はそれでもまだ、再びそれを再構築して世界へ挑むという大それた志を(これまた何の根拠もなく)持っていたことは持っていた。その大それた志が「文化闘争」という領域を見つけていたことは(恥ずかしながら)当時の文章を読んでみるとわかる。
そういうわけで、Ktさんのように「質の高い作品であれば、右、左関係なく評価するし、感動するはずである。」と決めつけることなど、到底できない。自分はどうなのかと述べることはできるが、そもそもなにが「質の高い作品」かを一般的に指摘できない。ましてイデオロギーに関係なく、「感動する」などと受容の仕方まで一般化することは、不遜もいいところ、とてもかなわない。おまえ自身はどこに身を置いて、そのような指摘ができるの? と問うことになる。
上記の断裂は、「しっくりこない」というより、足場を置いている世界が違うような気がする。そういうわけで、「問題提起」になかなか入り込めないでいるのである。
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