2017年4月30日日曜日
アマテラスがヤマトの神になったわけ――天皇制と私(7)
(承前)
新谷の著書が面白かったもう一つの理由は、天照大神がなぜ祀られることになったのか、という疑問を解くヒントが行間に見え隠れしていたことである。4/16のこの欄で林順治『アマテラスの正体』が「アマテル → 辛亥のクーデタ → 乙巳のクーデタ → アマテラス」と変遷をたどったと解説していることを紹介した。加羅系渡来集団の神(タカミムスヒ)であったアマテルが、それを乗っ取って支配することになった百済系の渡来集団の神として姿を変え、アマテラスになったという説である。しかしこれは、渡来系の天皇部族には説得性があるかもしれないが、先住系の集団や天皇部族に関係しない人々には、単なる「お話し」にしか過ぎないだろう。
「記紀神話」の成立と「日本」――天皇制と私(6)
「記紀神話」の成立を考えていて、王権神授的な物語りが「正統性」をもつところに呪術的な飛躍があるように思えて、どうにもわからなかった。その疑問を解いたのが、新谷尚紀である。彼の著書『伊勢神宮と出雲大社』(講談社選書メチエ、2009年)は、古事記、日本書紀と中国史書とを丹念に照合して、「記紀神話」の成立に迫っている。
2017年4月29日土曜日
「歴史の水脈」(3)列島の落差と地方の独立不羈
島尾敏雄と吉田満の対談でちょっとした「発見」がありました。
「島尾さんは出身が福島ですよね。」と吉田が言い、
「ぼくは福島県の相馬です。」と島尾が応えている。
4月の「ささらほうさら」でosmさんが引用した資料では「島尾は横浜の生まれであるが、両親の出身地である小高に夏休みを利用しては頻繁の訪れ「いなか」と呼んで親しんでいました」とあったから、いわば「こころのふるさと」かと思っていましたが、彼自身は福島県の相馬を「出身地」として意識していることがわかりました。単なる「夏休みのふるさと」ではなかったと思われます。
2017年4月27日木曜日
たいへんな大山詣でを実感した
10日前には「午後雨、降水確率80%」で心配されていた「丹沢大山登山」。一週間前には「曇りのち午後3時小雨、降水確率40%」となり、三日前には「曇り、降水確率10%、降水量0mm」となって、当然、行くことにした。山の会の月例登山。江戸のころから「大山詣で」と講までつくって行われていた。いまは日帰り登山ができる。秦野から登山口の蓑毛へバスで行き、浅間山を経て阿夫利神社下社からの表参道を通って大山に登る。下山路は日向薬師を目指すルート。
浅い浅い、表層をなぞるだけ
「東北でよかった」と発言した復興大臣が更迭された。それに対して「政治家が何か話したら、マスコミが一行悪いところがあったらすぐ『首をとれ』という、なんちゅうことか。」と「恨み節までぶつけた」と報道している。私の思ったこと。
2017年4月26日水曜日
伊勢神宮と天皇制と戦争責任――天皇制と私(5)
伊勢神宮の湛える「holy place」が、人類史的文化の始原を感じさせるからといって、それを直ちに「じぶん」に重ね合わせてしまっては、いけないと思っている。なぜか。伊勢神宮は天照大神を祀る「記紀神話」によってつくられた物語りである。神道学者の三橋健が指摘する通り、「いうまでもなく、これまで述べてきた神話は、いずれも歴史的事実ではない」。「しかしながら、伊勢神宮で最も重要な神嘗祭には、神話と歴史が一つとなって息づいている」と、ポンと飛躍しているのが神道学者の限界なのかもしれない。いやいや、ふたたび話しを元に戻そう。
2017年4月25日火曜日
自然と向き合う(己の)裸の存在――天皇制と私(4)
伊勢神宮を参拝したアーノルド・トインビーが、「Here, in this holy place, I feel the underlying unify of all religions. 」(この聖なる地で、私は、あらゆる宗教の基底をなしている統一なるものを感じる)と墨書したそうです(三橋健『伊勢神宮』)。西行も「なにごとのおはしますをばしらねども かたじけなさに涙こぼるる」と謳ったというのは、有名な話です。私は、「場」に深い感懐を刻むのは日本人のエートス(気風)かと思っていますが、トインビーの「墨書」などを知ると、なるほど論理的と感心してしまいます。「あらゆる宗教の基底をなしている統一」というのは、始原のことでしょう。つまり、伊勢神宮に身を置いて、自然と向き合う(己の)裸の存在を感じているのでしょうね。それを西行は「かたじけなさ」と表現した、と。
2017年4月24日月曜日
大山詣で
長袖のアンダーウェアに半袖のポロシャツを重ねただけで快適に家を出る。晴天。先週早朝に、山へ行こうとしていたのに寝床でこむら返りが起きて、行く気が失せてしまっていた。今週水曜日に案内する予定の丹沢大山を歩いてこよう。本当に久々の、日曜日の登山。7時5分、小田急線の秦野駅に降り立つ。驚いたことに、ヤビツ峠や蓑毛行のバス停には何十人という人が列を作っている。若い人が多い。バスはすでに出発態勢にある。尋ねるとすぐに出るというのに、列を作る人たちは乗ろうとしていない。次の臨時便を待って座ろうというようだ。構わず私は、バスに乗り込む。20分足らずで蓑毛で降りたのは、私一人。他の方々はヤビツ峠から大山か丹沢の方へ向かうのであろう。
2017年4月23日日曜日
「歴史の水脈」(2)地下水脈があらわれるとき
この小作争議にかかわった平田良衛はosmさんに大きな刺激を与えている。福島県教育庁のweb「うつくしま電子辞典」では「金房村……で出生。金房小学校、相馬中学校、第二高校を経て、東京大学卒業。プロレタリア科学農業問題研究会ドイツ語教師、「日本資本主義発達史講座」の企画・編集を担当。1945年小高に戻り、金房村の荒れていた土地を開拓した人物。高村光太郎の詩「開拓十周年」を日にして金房村開拓組合入植十周年の記念に建立した人物でもある。日本共産党福島県地方委員会責任者(書記長)もつとめた」と紹介している。福島県の名士なのである。この平田を通じて全農の弁護士が井田川浦の小作たちの弁論に立った。
2017年4月22日土曜日
「歴史の水脈」(1)故郷は遠くにありて思うもの
「ささらほうさら」の月例会。講師は60歳代後半にさしかかったosmさん。いまはある大学院大学で教えている。その彼が、小作争議を手掛かりに故郷・南相馬の土地の気風に思いを致す、面白い話であった。
「福島県相馬郡井田川浦干拓小作争議の分析――昭和農業恐慌期を中心として――」と題されたテーマの研究は、じつはosmさんの卒業論文であったという。70年代の前半であろう。1929年に生起した小作争議から40年ほどが経つ。それを識る人も少なくなっていたときに、史料を集め町史を読みこみ、知る人から聞き書きをした。それら史料やメモなどは、2011年の3・11の津波によってそっくり持っていかれてしまった。彼の手元に残っていた「昭和49年度岩手史学会における発表要旨」が史学雑誌に掲載されていたために、「報告」が可能になったという。東日本大震災と福島原発の事故が奪ったものは、土地と人とそこに刻まれていた「気風や人的水脈という形跡」まで含んでいたことを、ついつい私たちは忘れがちである。
2017年4月21日金曜日
第26回 36会 aAg Seminar ご案内
36会の皆々さま
暑い日々が続いています。まるで夏のようですね。元気でお過ごしのことと拝察します。またSeminarが近づいてまいりました。
さて、5月の「第26回 36会 aAg Seminar」の講師・S.ヤチヨさんが「いま入院している。検査中」と電話をくださったのが3月中旬、そのときは、「5月Seminarの講師が務められるかどうか、わからんのよ」と心細げでした。「Seminarのことは気にしないで、十分療養してください」と返答はしながらも「鬼の霍乱じゃな」というH.マモルくんの感想に、まったくの同感でした。しかし、むかしから親しくしているキミコさんは「娘さんが一時帰ってきとってな、その世話でくたびれたんじゃろ。あん人、よう気をつかうからなあ」とさらりと受け止め、「どっこも悪いとこなんか、ありゃせんが」と万事承知の様子。キミコさんの受け止めたとおり、後に「疲れが出た」という程度で退院し「5月Seminarの講師は予定通り引き受けます」と元気な声が戻ってきました。いや、よかった。
さて、「お題」は「お金の話」。角南さんには2013年の玉野での同窓会でお世話になりました。Hご夫妻から聞いた話しばかりですが、たいへん意欲的な事業家、商売が上手。それでいて社会活動も活発にしていて、本当によく人の世話をする。「いまの仕事をリタイヤしたら、玉野に帰って弥千代さんに面倒見てもらいたいとおもうとるんよ」とご夫婦ともに口をそろえています。そのS.ヤチヨさん、ご亭主のつくった(億単位の)「借金」をご自分の事業で全額返済してしまったと、これもH夫妻の話。ぜひともそこを切り口にして、高校卒業後に彼女の送ってきた55年ほどをお話しいただこうと考えました。
「お金の話」は、しかし、誰もが何がしかのかかわりをもって過ごしてきました。私などは大学で「経済学」を勉強しましたが、「価値論」や「貨幣論」はやっても「お金儲け」には縁がなかった人生です。でも「無くては暮らしていけない」もの。そういう意味では、だれもが口を挟むことのできる「お題」です。どこへどう着地するかわかりませんが、それこそseminarの神髄。愉しみにしてお集まりください。
◇ 2017年5月20日(土) 15:00~17:00
会場:昭和大病院入院棟17階AまたはB会議室
(品川区旗の台1-5-8、最寄駅:東急池上線・大井町線「旗の台」駅すぐ。地図は下記URL)
http://www.showa-u.ac.jp/SUH/access/index.html
◇ 講師:S.ヤチヨさん…………お題:「お金の話」
※ なお、Seminar終了後に会食を予定しています。予約の関係もあり、Seminar・会食の参加のご連絡を下記事務局にくださるようお願いします。
*************** 予告 ***************
☆ 2017年7月22日(土)第27回Seminar、講師:S.カズエさん、お題:「健康と香り」
★ 2017年9月30日(土)第28回Seminar、講師:T.フジタくん、お題:「未定」
★ 2017年11月26日(日)~27日(月)第29回Seminar、講師:Y.オオガくん、
お題:「お伊勢参り」
36会 aAg Seminar 事務局:kフジタ、e-mail mukan@opal.plala.or.jp
2017年4月20日木曜日
天皇制と私(3)私たちの自然感覚の根源の米作
卑弥呼らの「くに」を現住系と呼ぶわけにはいかないが、渡来集団からみると先住民の国であったことは間違いない。渡来集団が先住集団を平定したからといって、どうしてそれを隠さねばならないのか。あるいは、渡来集団である加羅系集団に婿入りした百済系集団が乗っ取ったからといって、どうしてそれが正統性を欠くとみなされるのであろうか。あるいはまた、辛亥のクーデタや乙巳のクーデタで政権を掌握したことを、なぜ別の物語をつくって隠さねばならなかったのか。誰がいつ誰に対して何故と、疑問は湧き起る。その疑問を林順治は、フロイトの「心的外傷の二重性理論」を媒介にすることによってクリアしたのであろう。
伊勢神宮が造営されたのは天武・持統朝と、新谷尚紀の『伊勢神宮と出雲大社――「日本」と「天皇」の誕生』(講談社選書メチエ、2009年)は記している。「記紀神話」と謂われる『古事記』『日本書紀』が編纂されたのは、そのほんのちょっとあとである。林順治が編集者であったのに似て、新谷尚紀もまた歴史学者ではなく、柳田國男や折口信夫の民俗学からのアプローチをしている、いわば(ちょっと)岡目八目の研究者である。私がそういうちょっとステップアウトした(在野の)研究者に魅かれるのか、そういう立場の人の「解説」が私のような門外漢に「わかりやすい」のかわからないが、「得心が行く」とか「腑に落ちる」ということには、何か(文脈や論調に)底流している作風と、それを読み取る私の身体に刻まれた「自然性」が関係しているように思えてならない。しかし、私たちが今「読み取っていること」には、現在の価値観や視点が(無意識のうちに)入り込んでいる。その当時の人たちの「支配の正統性」がなんであったか(それ自体を)を探ることは、ほぼ不可能だと思う。そう思いながら何冊かの「記紀」にまつわる本を繙いていて気づいたのは、まず、「記紀神話」の裡側からどうみているかを読み取ることではないか。内側というのは、神道に対して共感性をもって「記紀」を読み取る人たちが、どのような「自然観」をもっているかである。
三橋健『伊勢神宮』(朝日新書、2013年)の著者は1939年生まれ、神道学者。神道学博士の称号を持つ国学院大の教授である。この方を内側からの視線と見立て、この本を通じて、古事記、日本書紀の物語りの構造を読み取ってみた。すると、記紀神話においてオオクニヌシが不可欠の部分を占めている。高天原の神の国から葦原中国(あしはらのなかつくに)に天孫降臨するより以前に、「大国主神(おおくにぬしのかみ)によって国造りが行われていた」。また、「そのことは大国主、すなわち、「偉大なる大地の主」との神名にも現れている」と三橋は記す。これは先住民がいたところへ「渡来集団による統治」が行われのが「天孫降臨」であると意味している。つまり、高天原という神の国とは、加羅系や百済系の渡来集団の故地を指しており、故地におけるスサノオの暴虐(朝鮮半島における争い)を厭うてアマテラスが天岩戸に身を隠したとは陽の当たる新天地を探る過程を意味し、渡来することによって葦原中国を見出し、そこを治めよと「天孫降臨」したとする物語がかたちづくられる。故地を神の国とすることによって出自が権威をもち、新しく切り拓かれる葦原中国を治める正統性が神によって授けられたと、つまり王権神授説を採っていると読むと、いずこの国にも見ることのできる、「物語り」になる。もちろんこのさらに裏に、模倣や暴力への「世の初めから隠されたこと」が底流していることも、いうまでもない。
天照大神の命を受けた瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)につきしたがった建御雷神(たけみかずちのかみ)が大国主に「国譲りを迫る」が応えない。大国主の息子・建御名方神(たけみなかたのかみ)と建御雷神が「力競べ」をして勝ち、「(大国主が)引退するための住居を天照大神の御子の宮殿と同じように造る」ことをして、「国譲りを受諾する」運びになった、という。「力競べ」はしたが「譲り受けた」。しかも、大国主を祀る出雲大社を造る。あくまでも葦原中国という大地の神の助力を得て「瑞穂の国」という新天地を築こうとする物語りに仕上がっている。フロイトの「心的外傷の二重性理論」がどう作用しているかにここでは触れない。ひょっとするとそれは、これ以降の、加羅系と百済系という渡来集団の権力争いに適用される「物語り」かもしれないという気はする。
こうも言えようか。大国主との物語りは、渡来し統治したことを「隠す」というよりも、神の意思(神勅)をもって恩恵を施しにきたと(先住民や渡来系の同行庶民に)伝え遺す物語りが、なによりも統治する人々にとって(支配の精神的支柱として)必要だったとみることができる。その上で、さらに後に渡来系同士の間の血で血を洗うような凄惨な権力闘争が生み出すトラウマを昇華させる物語りを組み込んだ、と。
三橋の記していることで目を惹いたことがある。天照大神が瓊瓊杵尊に授けた「三つの願い」があったという。「宝鏡奉斎の神勅」「天壌無窮の神勅」「斎庭(ゆにわ)の瑞穂の神勅」が三大神勅として日本書紀に記されている、そうだ。「宝鏡奉斎」は、「この鏡(謂わゆる八咫鏡か)と床を同じくし、また御殿を共にして」わが魂と共に居よと謂う意味らしい。また、「天壌無窮」とは天皇の皇統が永遠に続くという祈り。最後の「斎庭の瑞穂」というのが、いつまでも瑞穂の国であるようにという願いを意味していようが、(歴史的事実として)すでに米づくりをすすめていた大国主の治める大地に(ひょっとしたら)さらなる米作技術を携えて渡来集団がやってきて、統治するようになったと解することができる。
つまり「天照大神の願い」の「斎庭の瑞穂」は、渡来系であろうと先住系であろうと、この地に米作に拠って暮らす人々にとって「得心の行く」願いである。もちろん米づくりに入る前の縄文の人たちは熊襲や蝦夷として蹴散らされて思慮の外であったと思われる。三橋は上記のことを記述したのちに次のようにまとめている。
《いうまでもなく、これまで述べてきた神話は、いずれも歴史的事実ではない。しかしながら、伊勢神宮で最も重要な神嘗祭には、神話と歴史が一つとなって息づいている。神話と歴史が時空を超越して今も生きているのである。/このように神代の時間と空間が今も生き生きと脈打っており、すべての根源を包蔵している一大聖地が、他ならぬ伊勢神宮なのである。》
神話と歴史的事実とを切り分けておきながら、「神話と歴史が時空を超越して今も生きている」とはどういうことか。「すべての根源を包蔵している一大聖地」と呼ぶ伊勢神宮に何がどう受け継がれ、今に至っているのか。この(引用した文章の)前段と後段のギャップが、おそらく今の時代と伊勢神宮に受け継がれている「神代」からの物語りとのズレがあり、ズレがあるにもかかわらず(「お伊勢参り」が今の時代に)受け容れられている共感性の「根源」がみてとれるのではないか。そんな予感をもちながら、さらに「共感性の根源」を探っていきたいと思う。
2017年4月19日水曜日
季節よ、も少し緩やかに
今日は夏日のような晴天とあって、山へ行くつもりで早朝に目覚ましをかけた。ところが、目覚ましが鳴る前に悲鳴を上げて目を覚ました。こむら返りが起こったのだ。左足のふくらはぎ、この腱がツ~ンと張って、先へ先へ伸びようとする。身体が硬くて足の親指先をつかめないから、こちらへ引っ張って張りをほぐすことができない。ついには起ちあがって脚を床に就けて、かろうじて引き攣りを直した。時計を見ると、目覚ましが鳴る9分前だ。このまま起きようと歩くと治まった引き攣り部分のじんわりとやわらかい痛みが、腱からふくらはぎ全体へと拡散していくように広がって薄らいでいく。着替えようとしたが、左足の緊迫感は先ほどの印象を残したまんまだ。山歩きの意欲が一気に消し飛んでしまった。
2017年4月18日火曜日
年寄りの夏がきた
ここ何日かのように暑い日がつづくと、体の水分が不足がちになり、それが翌日の便秘気味に表れて、慌てる。朝、家を出るときの外気温は22℃。まさに頃合いやよしなのだが、秋ヶ瀬のさくら草公園を歩くうちに少し汗ばむようになった。
2017年4月16日日曜日
われわれの出自と自然観――天皇制と私(2)
4/11の朝日新聞の「折々のことば」で、《基本的に、自分の器を大きくすることは出来ません。》と、出口治郎の言葉が引用されています。それに鷲田清一は次のようにコメントを加えていて、フロイトが最晩年の著作『モーセと一神教』で明らかにした「心的外傷の二重性理論」へ連想が飛びました。
2017年4月15日土曜日
ロングライフ・ロングツアー
昨日夜、北海道の旅から帰ってきた。6日間だったが、すべてお任せの気ままな旅。13名の鳥見の達人たちと行を共にした。むろん私は、門前の小僧。まだ門内には入っていない。ただ、カミサンの「くっつきのを」として、それなりに「仲間扱い」を受けている。
2017年4月8日土曜日
まさかスランプ?
5日から、このブログに書き込みをしていない。忙しいわけではない。5日にはお花見をした。風もなく、日和もいい。山の会の人たちと浦和田島ヶ原のさくら草公園に集まった。サクラソウはちょうど見ごろ。背を伸ばしかけたノウルシの黄と緑に負けじと、鮮やかな赤紫の花を開いて威勢を放つ。その、サクラソウとノウルシ自生地のずうっと向こうに、桜が満開になって、周囲を取り囲んでいる。さらにその向こうの鉄橋を渡る武蔵野線の電車の音が季節を言祝いでいるように聞こえる。その桜の木の下にブルーシートを布き、それぞれが持ち寄ったおつまみとお弁当とお酒を開いて、3時間余を過ごした。もちろん2016年度の活動報告、会計報告をするという大義名分はあったが、山歩きのエピソードや感想、寄る年波の身体状況を話しているうちに時間が過ぎてしまった。むろん私は、飲み過ぎるほど飲んだのだが、翌朝は気分よく、予約の歯医者に足を運んだ。今日は抜歯と仮歯の装填。消毒と抗生物質を飲むように指示を受けて釈放される。さほど痛みもない。その後の食事にも不都合はないから、身体への負担はほとんどなかったといってよいであろう。
2017年4月4日火曜日
人事の節季と人生の節季
三年前に亡くなった母の納骨を済ませてきた。墓所ではない。浄土真宗の大谷本廟への「分骨」である。墓守りを引き受けてくれた大阪に住む弟夫婦がいろいろと手配をしてくれて、私は兄弟として顔を出すだけであったから、何かお勤めがあったわけでもなく、気軽な2日間であった。前日の夕方に大阪に入り、岡山からやって来た兄夫婦、大阪の弟夫婦と宿やレストランの手配をさかさかとしてくれた姪っ子と夕食を共にして、亡き母のこととあわせて31年前にやはり大谷廟に納骨を済ませた父親のことなどを語り合ったが、やはり気持ちがほぐれて近況を交わすことに話しの重心は移っていった。
2017年4月2日日曜日
山の会の一年間の活動
2016年度の山の会のまとめをつくっている。5年目が終わった。そうして、私が計画して皆さんをご案内する「月例山行」に加えて、会員の皆さんが交代でプランニングをし、チーフ・リーダーを務める「日和見山歩」を実施するようになったから、何と月二回になった。実際には泊りの山行もある。合計してみると、「山の会」として一年で28日、山に入ることになった。平均年齢が古希という山の会としては、見事と言わねばらない。
2017年4月1日土曜日
しずかな晩冬の奥日光
那須の雪崩事故で高校生が死傷したことを受けて、栃木県教委は「高校生の冬山登山は禁止」とする方針を出している。だが、そうか。「あやうきに近寄らず」は、たしかに安全確保のひとつではあるが、それでは「山岳部」の技量は上がらない。高校時代から(冬山)訓練する必要はないと考えているとしたら、人の成長と運動技能の向上の関係を見損なっているとしか思えない。つまり今回の栃木県教委の方針は、学校教育の「保身」としか思えない。そんなことを考えながら、昨日は、奥日光の高山を歩いてきた。
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