2017年4月22日土曜日

「歴史の水脈」(1)故郷は遠くにありて思うもの


「ささらほうさら」の月例会。講師は60歳代後半にさしかかったosmさん。いまはある大学院大学で教えている。その彼が、小作争議を手掛かりに故郷・南相馬の土地の気風に思いを致す、面白い話であった。

「福島県相馬郡井田川浦干拓小作争議の分析――昭和農業恐慌期を中心として――」と題されたテーマの研究は、じつはosmさんの卒業論文であったという。70年代の前半であろう。1929年に生起した小作争議から40年ほどが経つ。それを識る人も少なくなっていたときに、史料を集め町史を読みこみ、知る人から聞き書きをした。それら史料やメモなどは、2011年の3・11の津波によってそっくり持っていかれてしまった。彼の手元に残っていた「昭和49年度岩手史学会における発表要旨」が史学雑誌に掲載されていたために、「報告」が可能になったという。東日本大震災と福島原発の事故が奪ったものは、土地と人とそこに刻まれていた「気風や人的水脈という形跡」まで含んでいたことを、ついつい私たちは忘れがちである。


 当時の地図が添付されている。井田川浦(現在は南相馬市小高区)は、現在の南相馬市の南端に位置している。その地区の南は(福島原発の)浪江町、双葉町へとつづく。常磐線が大きく西へ屈曲するところにある桃内駅辺りを通る宮田川に沿って三角州の平地が海へと広がりを見せる。その下流2㎞ほどの地域を干拓して水田にする事業が県内実業家の資金を得て昭和初期に行われ、そこに入植した小作農が起こした争議を調査している。昭和のはじめ、コメの反収増を意図して耕地整法がつくられ干拓への補助事業がすすめられた。大正期以降の前期産業社会が勢いをもってきていた時代だ。

 入植した小作農たちの賃借料は収穫に応じる物納であったらしい。収穫期の朝露の残る時間に地主が田んぼに立ち会って今年の収穫を見込み、その五割ほどを徴収したという。実際の収量は、その「見込み」よりも少なかったために小作農の暮らしは厳しい。減額を訴えるのにたいして地主は「いやなら出ていけ、代わりはいくらでもいる」と居丈高であったという。

 五公五民で、物納? それじゃあ江戸のころより悪いじゃん。米の市場もできていなかったの? 地主って、どういう人たち? 組合をつくって干拓事業をすすめたから、その出資に応じて干拓後の土地を所有したってことだよね。地主にしても「事業に投入資金の回収」を考えないわけにはいかなかったから、それなりに「高率小作料の加重」は厳しかった。米を市場に回すにしても、豊作だと米は安くなるし凶作だと高いが売る収量が少ない。地主も困る。それにしても、明治の地租改正では(地租が)3%程度だったってことを考えると、五割というのはひどいように思えるよね。

 小作として入植した人たちの出自は? 「入植小作農民の少なくない部分が、炭鉱その他の雑業を回路とする離農者であった」。そうか、農民層の分解が明治・大正期を通じて急速に進んでいたから、次三男は都市労働者として外へ出るしかなかったと言えそうだね。「代わりはいくらでもいる」わけだ。

 明治末年ころに生まれた私の父母の経てきた時代と重ねて、私は話をイメージしている。長男であった父は次男を大学へやるために苦労したと母は話していたが、じつは犠牲的にそうしたのではなく、長男は跡継ぎ、次三男は(もし家庭に与力があれば)大学でも出して生計を立てる道を与えなければならない時代であった。出自が農民であった炭鉱労働者も、機会あらば農業で身を立てたいと思っていたかもしれない。小作でもやろうというのは、わかる。「ふるさと」回帰だ。

 「争議は昭和6(1931)年10月から翌年11月の弾圧による妥協的解決まで一年にわたる」が、小作争議は宮城県では盛んであったが福島県の各地で起こっていたという様子はない。そこに南相馬の特性があると、福島県の小作争議の中心を担った当時70歳代の人に話を聞いてosmさんは考えている。争議の展開は、次のような段階を経ている。

(1)地主の土地とりあげ訴訟による法廷での守勢の闘い。
(2)立入禁止反対闘争が消費組合の組織を通じて攻勢的に展開する段階。
(3)県の「仲裁」による調停をめぐる段階。

 (2)の「消費組合の組織を通じて」とはどういうことか。osmさんは昭和4年に「消費組合」がこの地に設立されたところからを調べている。昭和5年の国際消費組合デーに配布されたチラシでは「消費組合は、商人のもうけをはぶいた値段で、安くて良い品物を売りながら、農民の皆さんの相談相手となり、済みよい社会を築くために働いている場所です」とある。まあ、今の生協のような活動であったようだが、それは後に、日農(日本農民組合)や全農(全国農民組合)の活動へとつながる。小高地区における消費組合を推進した人物は、杉山元治郎。牧師としてこの地に協会を設立し、そのかたわら農民の生活改善を指導、農民高等学校を開校している。この人は後に大阪に移り、賀川豊彦とともに日本農民組合を創立し、初代会長となっている。

 キリスト教を受け容れるって、南相馬の土地柄に、進取の気性があったんじゃないか? そういえば、相馬藩は江戸の(移動が御禁制の)ころから加賀から入植者を受け容れている。一向宗も一緒に入っている。北に伊達藩、南に岩城藩をおいて、つねに模様見の形勢にあったし、維新のときも幕府軍につくか官軍につくか両構えをとって、結局官軍についた。そうした地政に影響されて、つねに情勢を見計らう必要のあったことが、進取の気性に結びついているのかもしれない。岩手なんかじゃ、キリスト教の教会を建てるなんて、考えられなかったよ、きっと。

 消費組合と言い、労農運動との結びつきと言い、常磐炭鉱の(都市労働者的な)経験と結びついたことと言い、この土地そのものの人脈が(周囲の地域に比べて)先進的であったってことじゃないのか。「隣接する村(現浪江町)に、法律相談所を開いていた労働運動の活動家、全農の農民運動経験者がおり、板皮干拓の入植者と関わる。そのうちの一人は京浜地域の工場で働き、労働運動に参加。昭和3年の3・15で共産党員として検挙され、昭和5年に保釈されて帰郷していた人物。争議に指導的に関与。小作争議の収束後、北海道美唄市に移住して開拓に従事」とosmさんは調べ、学生のころ、美唄市を訪ねて話を聞いている。そのkynbさんの話は興味深い。彼は小作争議の中心的なリーダーではあったが収束後に「自分のいるところがなかった」という。小作争議を指導するということは運動をみている中央的な(演繹的な)発想では「運動の広まり」を意味するであろうが、当の井田川浦の小作農民からすると、(暮らしを営んでいくうえで)そうするべくして争議にいたったのであって、「運動の広まり」は関心外、争議が終われば運動は集結するから、「運動家」は居場所を失う。そう思ったので北海道の開拓へ向かったとkynbさんは話したそうだ。ここにも、「出来事」をみる視点がどこに据えられているか、示唆に富む。それにしても南相馬はkynbさんにとっても「ふるさと」であったはず。にもかかわらず「居場所」を見いだせなかったというのは、都市労働というか、賃労働に身を置いたものにとって、「ふるさと」は遠くにありて思う以外に思いようのない幻想なのかもしれない。私たちが(ポスト近代と呼ばれるほど)はるか遠くへ来てしまって、「お伊勢さん」を思うようなことに近い。(つづく)

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