2017年4月26日水曜日
伊勢神宮と天皇制と戦争責任――天皇制と私(5)
伊勢神宮の湛える「holy place」が、人類史的文化の始原を感じさせるからといって、それを直ちに「じぶん」に重ね合わせてしまっては、いけないと思っている。なぜか。伊勢神宮は天照大神を祀る「記紀神話」によってつくられた物語りである。神道学者の三橋健が指摘する通り、「いうまでもなく、これまで述べてきた神話は、いずれも歴史的事実ではない」。「しかしながら、伊勢神宮で最も重要な神嘗祭には、神話と歴史が一つとなって息づいている」と、ポンと飛躍しているのが神道学者の限界なのかもしれない。いやいや、ふたたび話しを元に戻そう。
乙巳のクーデタ=大化の改新によって律令国家へ踏み出した倭(やまと)王権が、天武・持統朝(673年~696年)に国号を「日本(やまと)」とし伊勢神宮を創祀したことと、藤原不比等(659~720)の指揮によって(林順治の考察によれば)「記紀神話」がつくられたこと(古事記は712年に撰上、日本書紀は720年に撰上)は、やはり大化の改新によって天皇の支配体制が確立へ動き出し、701年の大宝律令が発布されたことによって完成したからであろう。そもそも乙巳のクーデタがおこったのは、その2年前に蘇我入鹿によって聖徳太子の子孫25人が暗殺された入鹿の専横と暴虐に起因するともいわれ、それが「記紀神話」の創作動機になったとされている。つまり支配体制の完成と同時に、その正統性(の物語)が必要とされた。藤原不比等は天智天皇によって藤原姓を賜った(当時の外交責任者)中臣鎌足の子。不比等11歳のときに鎌足は死に、壬申の乱のときまだ(不比等は)13歳であったために罪科に問われることもなく、天武朝の後半にとりたてられ、持統朝で頭角を現して律令の編纂に力を尽くし、次の即位直後の文武天皇には娘・宮子を夫人として送り込んでいる。「藤原時代」のはじまりである。
「記紀神話」は、「世の初めから定められたこと」としての「天壌無窮の万世一系」の天皇神話を築き上げることで、盤石のものとされたのであろう。だが、神の子孫としての天皇という物語がなぜ必要であったのかは、わからない。ただ王権を手中にするための「戦い」は、今の私たちが考えるような単純な(つまり明白な外敵に対するような)暴力の発動ではなく、背信と謀略を重ねて近親類縁のものが互いに血で血を洗う陰惨なものではなかったか。そのために供養と供犠が必要であり、呪術的な、あるいは宗教的な儀礼が営まれ、そうした規範を一般的とする社会集団があったと考えるほかない。渡来集団同士の内部的な権力闘争というばかりでもなく、どのように渡来集団が先住集団を支配していったのかは、想像に任せるしかないが、それが単に暴力によってなされたと考えて片づくのであれば、宗教なるものは生まれなかったであろう。事実は逆か。じつは単なる暴力によってなされたがゆえに、それがつねに、支配の正統性を疑わせる結果を招く。それゆえに「物語り」をつくり、「国譲り」が行われ、敗者のオオクニヌシを神として祀りあげる社を立てる必要があったのかもしれない。
中曽根康弘が首相として靖国参拝をした1984年、首相の私的諮問機関「靖国懇」で示された梅原猛の「反対意見」の前段は次のように述べている。
《一、記紀に示される伝統的神道は、味方よりむしろ味方に滅ぼされた敵を手厚く祀るが、靖国神道は自国の犠牲者のみを祀り、敵を祀ろうとしない。これは靖国神道が欧米の国家主義に影響された、伝統を大きく逸脱する新しい神道であることによる。》
梅原は「廃仏毀釈」についても、それを「神殺し」であると断罪している。前回引用した神道界の第一人者と仏僧・夢想疎石の邂逅と絶賛された「真実の参宮」も、「祈りのない祈り」という「空っぽ」の祈りを提示している。空海や般若心経にも通じる無であり空であるありようが、日本に伝わった仏教が先住集団の呪術的、あるいは神道的進行とも融合して、根づいていった形跡が、神仏習合であったろう。つまり日本の民族的文化摂取の特性としていうならば、換骨奪胎とでも謂おうか折衷主義と謂おうか、和魂洋才と言われたこともあったが、要するに外来文化の「いいとこどり」をして、先住的集団の習俗となじませていった。仏道における修験道者の存在などはこうした宗教面における伝統的習俗との混淆を示している。
だがもう一歩踏み込んで考えると、天武・持統朝につくられた「記紀神話」に、果たして民草はどう算入されていたかとなると、ほとんど土地に付属して棲みついている狐狸兎の類と変わらなかったのではないか。つまり藤原不比等が配慮していた「物語り」は、服属させた政治勢力であり、統治することになった社会陣営であり、支配勢力の「正統性」の保障であったのではないか。この人たちの胸中に生まれる「支配への疑念」とそこから生じる「(天から下される罰への)恐怖心」に抗することができるような「物語り」であった。とすると、それによって誕生した「記紀神話」を今、ただの民草である「じぶん」が、今の時代の(主権者面をして)我がことのように一体化してしまうのは、ロシアの俚諺ではないが、「両目がつぶれる」ことではないのか。
伊勢神宮が始原のままに引き継いでいる「人類史的文化」と天皇制とは、ひとつもふたつも緩衝点を置かねばならないのではないか。まず何よりも、伊勢神宮の「内外清浄」と乙巳のクーデタなどその動機となったとされる聖徳太子の子孫暗殺が、どう組み込めるのか、わからない。さらに上記の梅原猛が非難している靖国神道である。梅原は「薩長政権の天皇制利用」と規定して「神を殺した」としているのだが、私にとっては「天皇制の戦争責任」(天皇の、ではない)が、いまだに政治の領導者からあきらかにされてこなかったことが、ひっかかっている。
今上天皇は、昭和天皇の戦争責任の贖罪のように、戦跡を訪れて戦死者を慰霊している。しかもそれを「象徴天皇」としての――つまり、国民の為すべきことの象徴的振舞いと考えている(らしい)。そのことには、頭が下がる。だから、天皇の戦争責任とはいわない。天皇制の戦争責任にケリをつけないで、教育勅語を暗唱させる幼稚園教育を称賛する首相をもっている自身のふがいなさを感じ続けている。
伊勢神宮に「かたじけなさ」を感じ、「じぶん」の実存の始原をみるように思うのと、天皇制とが切れてしまっているのは、私自身の思い入れのせいなのか天皇制の歴史的現在のせいなのか、ひと口には決めかねるが、たぶん双方のもってきた「かんけい」のせいなのであろうと、考えている。そうした「わだかまり」を抱きながらも、ひとまず「人類史的始原」に触れてみたいと思って「お伊勢参り」をするつもりでいる。
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