2017年4月23日日曜日
「歴史の水脈」(2)地下水脈があらわれるとき
この小作争議にかかわった平田良衛はosmさんに大きな刺激を与えている。福島県教育庁のweb「うつくしま電子辞典」では「金房村……で出生。金房小学校、相馬中学校、第二高校を経て、東京大学卒業。プロレタリア科学農業問題研究会ドイツ語教師、「日本資本主義発達史講座」の企画・編集を担当。1945年小高に戻り、金房村の荒れていた土地を開拓した人物。高村光太郎の詩「開拓十周年」を日にして金房村開拓組合入植十周年の記念に建立した人物でもある。日本共産党福島県地方委員会責任者(書記長)もつとめた」と紹介している。福島県の名士なのである。この平田を通じて全農の弁護士が井田川浦の小作たちの弁論に立った。
この平田良衛の立ち位置と小作争議の現場性とが「中央」と「地方」という論題を提示していたと読み取るのだが、それは(たぶんに)四十数年経った今の時点からの理解ではなかったろうか。聞き取りをした平田良衛の人格的な影響もあり、osmさんは日本共産党の活動に組み込まれていくことにさしたる抵抗を感じなかったと、大学時代までの自分を振り返っている。そうなのだ。私たちは自らが生まれ育つ時と処を選べないように、生まれ落ちて出会う人物をふくめた土地の気風や環境をまさに「出自」として受け入れて自らをかたちづくる。そして、自我意識が生まれるというか、自らを意識しはじめたときに、そのほとんど意識・無意識に刷り込まれた「じぶん」の言葉や観念や感性や感覚や好みなどまで、何を根拠にそう思っているのか、そう感じるのか、なぜそう考えるのか。まったく考えたこともなかったことに視線を向けると、「じぶん」の輪郭が一つひとつ玉葱の皮をはがすように、疑問になって浮かび上がる。
そうしてみると、「じぶん」の輪郭を描きとるということは、幼少時の闇の中で生まれ育ったすべての環境を(今という時点から)再構成することに近い。むろん我田引水ということではない。無意識という混沌の海の中からひとつひとつ「じぶん」を拾い出してしていく。それは「世界」を描き出していくことでもあると気づく。輪郭を問うていけばいくほど、漠然とした「環境」のもつ気風が、いつしかわが身に刻まれていることに思い当たる。玉葱の皮というのは、そういうことに気づいたときの我が身の深層のことだ。
osmさんは、南相馬という土地のもつ気風に行き着いている。そしてこう、赤坂敏雄の言葉を引用する。
《埴谷雄高は、台湾生まれですが、祖父は相馬藩士であり、そのことに強い執着を持っていたと言われています。先祖の墓も残っており、本籍地を動かすことはしませんでした。/島尾敏雄は、横浜生まれですが、両親の出身地である小高に、夏休みを利用しては頻繁に訪れ、「いなか」と呼んで親しんでいました。島尾作品の原風景は、この「いなか」で育まれたのだと思います。/また、ここ南相馬の地は、憲法学者の鈴木安蔵、実業家の中谷清壽、社会主義運動家の平田良衛など、多くの文化人が輩出しているところであります。このような方たちが生まれた風土をとても不思議に感じますし、また、とても魅力的に感じます。》
これは小高の設立された「埴谷島尾文学記念館」の館長に就任したときの挨拶である。赤坂自身はこの土地に縁のある人ではなかったろうが、彼の語る南相馬評がosmさんのみに刻まれた気風の誇りを表現している。それをosmさんは「歴史の水脈」と名づけたのであろう。水脈とは、地下に滔々と流れて、地上に生きる人たちを根底的に支える。南相馬という土地がもつエートスがosmさん自身の、「じぶん」を振り返る視線に受け継がれていると感じた。
ロシアの俚諺に「歴史をみなければ片目がつぶれる。歴史ばかりをみる者は両目がつぶれる」というのがある。これは、「歴史」をみるのは、つねにみている(現在の)地点からの視線で再構成されている、またそうでなければ意味がないのだぞと指摘しているのではないか。だがその瞬間、平田良衛や埴谷雄高とosmさんの出身階層の違いもまた(あったとすれば)露わになるに違いない。それがどう、osmさんの「桎梏」となったか。そのあたりもなかなか興味深いことではある。
osmさんが「歴史の水脈」を現在の地平から読み取っていることを言祝ぎたいと思った。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿