2017年4月30日日曜日

アマテラスがヤマトの神になったわけ――天皇制と私(7)


 (承前)
 新谷の著書が面白かったもう一つの理由は、天照大神がなぜ祀られることになったのか、という疑問を解くヒントが行間に見え隠れしていたことである。4/16のこの欄で林順治『アマテラスの正体』が「アマテル → 辛亥のクーデタ → 乙巳のクーデタ → アマテラス」と変遷をたどったと解説していることを紹介した。加羅系渡来集団の神(タカミムスヒ)であったアマテルが、それを乗っ取って支配することになった百済系の渡来集団の神として姿を変え、アマテラスになったという説である。しかしこれは、渡来系の天皇部族には説得性があるかもしれないが、先住系の集団や天皇部族に関係しない人々には、単なる「お話し」にしか過ぎないだろう。


 ところが新谷の行間に見え隠れするヒントは、厩戸皇子(のちの聖徳太子)が隋に送った「国書」に起因するとはじまる。よく知られている「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無なきや、云々」という厩戸皇子が隋の煬帝に認めた書は、隋と対等の位置に立つ独立不羈の誇りのように、私たちは習ってきた。ところがこの書は、「蛮夷の書、無礼なるものあり、復た以って聞する勿れ」と煬帝の怒りを買ったと隋書にあるそうだ。当時、ヤマトでは「日没」は「天日隅宮(あめのひすみのみや)」、つまり日没が美しい宮と呼んだ心象であったが、当時の隋では「日没」は忌避される言葉だったそうだ。つまりそれを知らなかったヤマトからの「国書」に隋の皇帝が怒ったというのだ。その後日談が記されていて「行間」が見え隠れする。小野妹子が、隋の使者・裴世清とともに帰朝するが、煬帝からの「国書」を帰国途中の百済で盗失したと記されているそうだ。それを新谷は、じつは「国書」に非礼を謗る文言があったのではないか、それを(当時、朝鮮との交易・交渉の窓口をつかさどっていた権勢家の蘇我氏には)知らせないために盗失をよそおったのではないか、と。その責めを負って小野妹子は流刑と決定されたが、天皇はこれを赦免したばかりか、再度、遣隋使に任命している(なお、このときには「東(やまと)の天皇、西(もろこし)の皇帝に白(もう)す」と儀礼的で無難な言辞を送っていると、新谷は記している)、とも。隋臣・裴世清との送迎の儀礼に「蘇我馬子はじめ、蘇我氏側の者たちは出席してないらしい(のに対して、610年新羅と任那の使いが来たときは蘇我馬子・蝦夷が中心で厩戸皇子はその場にいない)」とも指摘している。外交に関する「棲み分け」がなされていたというか、蘇我氏はもっぱら朝鮮半島との提携によって権勢を保持し、隋との関係を軽視していたと読むことができる。

 新谷は「古代史研究家の東野治之」の仏典研究を紹介し、「日出ずる処は是れ東方、日没する処は是れ西方、日行く処は是れ南方、日行かざる処は是れ北方なり」による解釈を示している。これは陰陽五行説が当時、影響力を持っていたことを示している。私は陰陽五行のことを知らなかったが、「色」を取り上げるseminarの講師から聞かれて、吉野裕子『隠された神々――古代信仰と陰陽五行』(河出文庫、2014年。初出・講談社現代新書1975年)に眼を通し、「いやなかなか面白い、私たちの感性の由来に触れて解き明かしていくような気分で読みすすめました」と(2015/12/14のこの欄で)感想を記している。吉野は、古代信仰では強く東西(出雲大社と鹿島神宮)の観念が潜在していたが陰陽五行が影響するにつれて南北(伊勢神宮)の観念が導入されるようになった、と説いていた。

 推古朝の王権には自らの国を「日の昇る国」とする意識があったとしたうえで、《「日出ずる処の天子」「アメノタリシヒコ」と名乗った推古の王権では大王(天皇)を日神の子孫とする観念が次第に形成されつつあった段階と考えられる》と述べ、国史の編纂に着手したとする。日神とはなにか。新谷はこうつけ加わえる。

《この推古朝における王権神話の構想の中で先行したのは自然信仰的な「日神」であり、それに対してのちに新たに構想されていったのが神話的な「天照大神」の神観念であったと考えられる。》

 こう読んでいて私は、毎朝起きるとうちの外に出て東に昇る太陽に手を合わせていた母親の姿を思い出している。もう60年ほども前のこと。すでに百姓ではなかったが(母の祖父の時代に大百姓であり、没落してのちもそれを誇りにして生きていた)母親の、身に刻まれた痕跡のように「自然信仰的な日神」を敬う振る舞いが、深く私たちの暮らしに沁みこんでいると思う。「こころのふるさと」のような日神への自然信仰を私たちは共有している、と。

 話しは変わるが、去年から評判だった映画「君の名は。」をみたとき、どうしてこれが「泣ける」のかわからなかった。またなぜこの映画が「世界的に空前の大ヒット」するのかもわからなかった。ただ、巨大な隕石が落ちて失われた村に強い憧憬を感じる都会人の視線には、ここまで来てしまった人類史の出立点を懐かしさをもって振り返るような感懐が流れている。ふとわが身の日常をみると、「君の名は。」と問わねばならないように、固有名を失って過ごしていることに思い至る。懐かしさの感触は身体に刻まれた遠い記憶なのかもしれない。
 
 お伊勢さんが千何百年かのあいだ保ち続けてきた稲作の始原の文化に、もう一度立ち返りたいという願望が、自分で育てて、自分で作り、自分で使ったり修理したりするということからはるかに離れてしまった現代社会の私たちのなかでは、無意識化されてしまっているのだろうか。そろそろ究極の地点に到達しつつあるのかもしれない、と思った。

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