2017年4月16日日曜日

われわれの出自と自然観――天皇制と私(2)


 4/11の朝日新聞の「折々のことば」で、《基本的に、自分の器を大きくすることは出来ません。》と、出口治郎の言葉が引用されています。それに鷲田清一は次のようにコメントを加えていて、フロイトが最晩年の著作『モーセと一神教』で明らかにした「心的外傷の二重性理論」へ連想が飛びました。


 《「器」には容量というものがあり、たやすく拡大などできない。それなら逆に、中身を捨てて空っぽの状態にすること。見栄とか好悪、価値観、そういうこだわりを捨てれば、これまでとは違う考え方や大事な諫言もすっと中に入ってきて、器も容量が増す。あたりまえのことというのはみな、どこかしらある反転を内蔵しているようだ。》

 飛んだ連想の話の前に、ひとつひらめいたことに触れます。「「器」には容量というものがあり、たやすく拡大などできない。それなら逆に、中身を捨てて空っぽの状態にすること」でひらめいたのは、安倍首相夫人のことです。件の「森友問題」で「どうして私が話題になるのでしょう。話題にするなら、もっと他のことも報じてほしい」とあっけらかんと喋っていた彼女です。ああこれは、「空っぽなんだ」と私は思いました。つまりご自分の「器」を無にして、「なんでも私を利用できるものならご利用ください」と投げだすことによってご自分の実存を明かそうという振る舞い方です。もちろん「利用価値」は「首相夫人」という立場にあります。利用価値を生むのは、それに接した人が忖度するからにほかなりません。安倍首相のように、「そんなことを忖度して仕事をする役人はいません」というのは、つねに忖度されて育ったのをご自分の力量と(個人主義的に)理解しているお坊ちゃん育ちのせいです。

 いやいや、話しを本筋に戻しましょう。どこで連想が飛んだか? 末尾の「あたりまえのことというのはみな、どこかしらある反転を内蔵しているようだ」というところで、最近読んだ(孫引きの)フロイトのトラウマ論を思い出したのです。これを力説している林順治はフロイトの著作『モーセと一神教』を援用して、「二つの民族集団の合体と崩壊。すなわち最初の宗教は別の後の宗教に駆逐されながら、後に最初の宗教が姿を現し勝利をうる」と、述べています。フロイトが幼少時の心的外傷が宗教心の基盤をつくるとしていることを読み解いているわけです。

 林順治は『アマテラスの正体――伊勢神宮はいつ作られたのか』(彩流社、2014年)のなかで、二度にわたる渡来系部族が現住系を制圧し、さらに渡来系のあいだでの争いを勝ち抜いてきた天皇部族が、自らの出自の正統性を明かすためにつくった物語が「反転を内蔵する」としているのです。簡略にすると以下のようにまとめられます。

(1)現住系の(隼人とか蝦夷と謂われる人たちを含めて)卑弥呼の君臨する邪馬台国などを制圧して、加羅系の第一陣渡来部族が九州から東北地方へと領域を広げる。
(2)扶余族を出自とする百済蓋鹵(こうろ)王の弟、昆支(こむき)と余紀が、461年に加羅系渡来集団に婿入りし、468年に宋から征虜将軍、冠軍将軍を叙綬。昆支は加羅系崇神王朝を継承して、倭王武(ヤマトタケル)を名乗る(応神稜系)。他方、余紀は継体(仁徳稜系)として大阪平野の原型を作った。これが第二陣の渡来集団である。
(3)第二陣の昆支と余紀の系統が激しく対立して皇位継承を争い、加羅系の残存勢力と結びついたりして、二度にわたるクーデタを起こし、最終的に敏達天皇(継体=仁徳稜系)が覇権を握り、現在の天皇部族として「天壌無窮の万世一系」の物語をつくった。それが古事記、日本書紀である。

 どこで「反転」しているのか。林順治は、石渡信一郎や井原教弼(みちすけ)の「記紀」解読を読み込み、フロイトの「心的外傷の二重性理論」を媒介にして、「加羅系渡来集団の藤原不比等がアマテルを征服した応神=八幡神を再度征服してアマテラスをつくった」としています。つまり、もともと加羅系渡来集団の神(タカミムスヒ)であったアマテルが、百済系の昆支系に制圧され、さらにそれが百済系の別集団・余紀=継体系に統合されてアマテラスと姿を変えた物語を摘出しています。林はこれを、フロイトが指摘する「最初の宗教は別の後の宗教に駆逐されながら、後に最初の宗教が姿を現し勝利を得る」という説に整合すると言っているのです。

 そこには、(1)の征服を現住系との統合と「正統化」する物語がつくられ、さらに(2)の百済系が、加羅系を制圧したことを消し去って、統合していったという「正統性」の物語りに代わり、さらにさらに、(3)の531年のワカタケル大王(百済系渡来集団・昆支の子=欣明)による辛亥のクーデタを「神に祀り上げ」て消去する創作が「記紀」神話として行われている、と。それが645年の乙巳(いっし)のクーデタ(=大化の改新)を通じて、昆支の霊を八幡神となし、701年アマテラスに代わったことだ、と。

 この林の所論を読んで私は、3/28のこのブログ《「お伊勢さんの不思議」Seminar報告(2)「日本人」と「美意識」》で次のように感想を述べたことを、林の引用した歴史学者の言説を通じて確認したような気持でいます。

 《ところが平定された大国主命は、天皇部族の天照大神を「祭神」として出雲大社に祭り、大国主命がそれを祀る神官「大祝(おおほうり)」の役を引き受けたように見受けられます。つまり、征服者を「神」として祀りあげ、被征服者である現住系の人たちが「大祝」として祭祀を行うという、ちょっとねじれた「征服――被征服」のかたちを残したのが「大社」と考えられるわけです。面白いですね。この征服者ー祭神の話は諏訪大社のことを調べたとき(1970年代)に耳にしたものです。》

 正直なところこれまで「古事記」を読んでみても、神々の名と天皇の名とが錯綜し、統治期間や年齢とがまさに「神話」のレベルであるために(歴史とつながらなくなり)わけがわからなくなって、途中で投げ出してしまっていたものでした。林は専門家ではなく、編集者であったらしく、その目で読み込んだ専門家の所論が、私のような素人目には、ずいぶん咀嚼してくれているように思えて、好ましい。

 好ましく思われたのは、

 《531年、ヤマトタケルの子・ワカタケル大王(稲荷山鉄剣銘文)(=欣明)による辛亥のクーデタ。加羅系残存勢力:中臣氏、大伴氏、物部氏を抑え、始祖王崇神の霊(アマテル)を日売神(昆支の妻)とし、昆支を八幡神として三輪山に祀った。》
 《欣明(ワカタケル大王)は継体の子・宣化の子・石姫を皇后として敏達天皇を生み、石姫亡き後、蘇我稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)を后にして蘇我馬子(=用明、聖徳太子)を産んだ。中臣・物部など旧加羅系残存勢力が加わって、645年の乙巳(いっし)のクーデタ(=大化の改新)まで皇位継承を争う。》

 という記述のあたりで、私たちが高校生の頃教わってきた「歴史」とつながってきたからです。蘇我氏が「馬子・蝦夷・入鹿」と差別的な名称を冠されていたことなどにも、「創作」の手が入っているときくと、天皇部族が何を護ろうとして「創作」をしてきたか――それはすなわち、私たちが何を「正統性」の根拠としてきたかでもあって――興味津々であります。

 ことに「反転」するという指摘は、フロイトを援用するまでもなく、私たちの身体に刻まれた自然観にそぐうように感じられます。「お伊勢さん」が、「記紀」の正統性神話をどのように残しているのか、私たちの無意識をのぞきにいくような気分で、ワクワクしています。これって、江戸の町民の「お伊勢参り」の気分と似ているのだろうか。

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