2017年4月4日火曜日
人事の節季と人生の節季
三年前に亡くなった母の納骨を済ませてきた。墓所ではない。浄土真宗の大谷本廟への「分骨」である。墓守りを引き受けてくれた大阪に住む弟夫婦がいろいろと手配をしてくれて、私は兄弟として顔を出すだけであったから、何かお勤めがあったわけでもなく、気軽な2日間であった。前日の夕方に大阪に入り、岡山からやって来た兄夫婦、大阪の弟夫婦と宿やレストランの手配をさかさかとしてくれた姪っ子と夕食を共にして、亡き母のこととあわせて31年前にやはり大谷廟に納骨を済ませた父親のことなどを語り合ったが、やはり気持ちがほぐれて近況を交わすことに話しの重心は移っていった。
大阪の街、と言っても梅田駅のごく周辺しか歩いていないが、日曜日ともあって、自在に歩けないほどごった返す人のにぎわい。そこここで交わされる中国語や英語がとびこんでくる。道路や建物を繋ぐデッキなどでギターを弾く青年、それを立ち止まって聞き続けている若い人たちや通りすがりの人びとの表情をみても、上向きの活気を感じる。そうか、年度のはじめということもあって「切り替わる時期」の、つまり大きな「節季」の、自ずから上向きになる日本人の自然観と見合っているのかもしれない。
思えばそうやって、私も半世紀近い仕事人生を送って来た。それが一年を単位とするリズムをつくる。暮らしのサイクルを画する。苦しくともなんとかひとサイクルを持ち堪えようと頑張る目途になった。案外、精神衛生的に重要な意味を持っていたのかもしれない。前年度のはずかしい失敗やほぐれないしがらみ、苦しかった時期、良かったことも悪かったことも、さっぱりと水に流して踏み出すことができる。当人が思うほど人は私のことを気にかけているわけではないし、憶えているわけでもない、「他者への無関心」という「かんけい」の希薄さがたびたび救いになっていたが、それに加えてこの年度の切り替えという「節季」の社会的規範は、「場」を重んずる私たちの感性において、きわめて大きな浄化作用をしていたと思う。もちろん「節季」がリスタートになるのは、まず人が入れ替わるからだ。じぶんの気持ちの切り替え時にもなったわけ。もちろん、仕事をしているときの話しだ。
リタイアしてみると、まず「節季」というのが文字通り、季節の変わり目になった。人事の変わり目という「年度」は、孫の成長に合わせてやっては来るが、自分の内面の切り替えや浄化には縁がなくなる。せいぜい、「山の会」の一年間をまとめて「活動報告」をつくるとか、「会計報告」をするときだけ、「年度」が顔を出す。もちろんただそれだけでも、我が身の一年間を振り返るから、微妙な違いが浮かび上がる。年々「年を取ったなあ」という感懐が強くなる。つまり、文字通り季節の進行という自然(しぜん)の節季にわが身の衰えという自然(じねん)の変容が符節をあわせて並行しているように思える。
そういうわけで、亡き母の納骨のついでに私が墓所と見当をつけている京都のお寺をカミサンと一緒にみてきた。いわゆる「墓」はつくらない。お寺の永代供養にお願いする。お位牌とお骨を預かり、夫婦の後の方が33回忌を終えるまで「祈念日の法要」は行い、その都度、子どもらに案内もする。それ以降は、合葬しておしまいとする、というもの。私の子ども家族が、名古屋と芦屋に住まわっているから、京都辺りが真ん中でちょうどいいかという程度の、場所のこだわり。子らはどちらも、生まれ育った浦和に「ふるさと」を感じている様子がないからだ。ところがあとで大谷本廟を訪ねると、こちらにも永代供養がある。その話も聞いてきた。いかにも親鸞さんらしく、お位牌は、ない。納骨は引き受ける。あとは朝晩、一日二回の納経を行うから、ご遺族はいつでも(お布施なしで)参列してよいとある。前者のお寺に比べて納める料金は10分の1だ。う~ん、33回忌まで名が残るかたちの祈念日の「案内」が子らのところに届くのがいいか、それはまったく遺族の心中に宿して、その気の向くままに「祈念日」に大谷本廟へ出向いて祈りを捧げるのがいいか。これもまったく、そのときすでに彼岸に行っているわが胸のうちのことにほかならない。何を迷っているのか。お墓をつくらないというのは悪くないと思っているカミサンは、ま、急ぐ話でもないでしょうから、ゆっくり考えましょうと、暢気に構えている。
大谷本廟には31年前にも来ているのに、すっかり忘れている。建物を観ていると、憶えがあることはわかる。靴をもって本殿に上がり読経に参列し焼香するときには、そういえば奥日光の東照宮でもこれに似た場所に身を置いたことがあったなと思い出したりしていた。独りで来ている人、読経のあいだにこらえきれず涙を流す人、小声で「なんまんだぶう、なんまんだぶう」と誦経する人と、いろいろな人が人生の「出逢い」を振り返りながら「かんけい」を感じとり、観ている。それに比べたら私は、信仰心がないなあと、あらためてわが心裡に帰依するもののないことを痛感した。
京都駅近くのお食事処で2時間ほどお昼を共にして、大阪、岡山組と別れた。甥っ子(弟の息子)夫婦も二人の子どもを連れて同席している。わが父母の仏壇は、いずれ彼らが継いで世話をすることになろう。連綿と続くDNAの鎖が絶えなければ、それだけで人類史的にはお役目を果たしたわけである。亡くなったものをどう弔うかは、生きているもののモンダイと考えると、じぶんたち夫婦の墓だ永代供養だということを生きているうちに考えることなどないのかもしれない。なのに、それを(わがこととして)考えているなんて、ここまで核家族というか、個人主義が徹底した時代を生きた証なのかもしれない。
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