2017年4月29日土曜日

「歴史の水脈」(3)列島の落差と地方の独立不羈


 島尾敏雄と吉田満の対談でちょっとした「発見」がありました。

「島尾さんは出身が福島ですよね。」と吉田が言い、
「ぼくは福島県の相馬です。」と島尾が応えている。

 4月の「ささらほうさら」でosmさんが引用した資料では「島尾は横浜の生まれであるが、両親の出身地である小高に夏休みを利用しては頻繁の訪れ「いなか」と呼んで親しんでいました」とあったから、いわば「こころのふるさと」かと思っていましたが、彼自身は福島県の相馬を「出身地」として意識していることがわかりました。単なる「夏休みのふるさと」ではなかったと思われます。


 吉田満は函館の出身。その二人が取り交わす、東北、相馬、函館と島尾が戦中に特攻隊員として待機していた奄美と戦後身をおくことになった琉球という圏域と日本列島の中央部との違いが、面白く語りだされています。

 まず吉田が、津軽と薩摩は似ていると口を切り、島尾が《似ているところがありますね。共通語をつかうときの抑揚がね》と、いかにも言葉を紡いできた作家らしい視線がきらりと輝きを見せています。吉田はさらに、こう畳みかけています。《県民性なんかもね。無口で、愛想が悪くて、しかし人情は良いとか。》

 「ささらほうさら」の集まりでも、岩手出身のktさんは首都圏に来て働き始めて以来、「方言」にもつねに劣等感をもっていた、と話していたのを思い出します。それに対して函館出身のwsさんは恬淡としている。南相馬出身のosmさんは方言のことなど意に介していない様子でした。また私自身は、生まれた高松から対岸の玉野市に移住したときに「方言」をからかわれて「じぶん」を意識するきっかけになったことはありましたが、劣等感とまでは言えなかったような気がしています。慥かに、たえおば大阪弁の人は何年東京にいても大阪弁が抜けないし、そもそも抜こうとしていないと「我の強さ」をあげつらわれたりすることがあります。

 吉田の感懐に島尾は、こう応じています。

《……北および南と真ん中とは、ちょっと違うんじゃないですか。違うというのは、日本人は昔から倭人だといわれているけれども、倭人というのはぼくは真ん中辺で、北と南の方は違うと思うんですね。……縄文の長い時代に日本列島人みたいなものができたと考えるよりしかたがないですものね。》

 縄文人とか弥生人という分け方を考えたことはあります。また、木曾辺りを端境にして東と西で言葉も習俗も食文化も違うと論じている日本文化論を読んだ記憶もあります。だが、島尾のようにみてみると、稲作文化を抱えもってこの列島にやって来た渡来人の系譜を、私などの香川や岡山出身の人は持っているのかもしれません。長い間に交じってしまっているのでしょうが、基本的に稲作文化の営みが私の「身」をつくっていると思うことが、結構多いのです。ことに「お伊勢参り」のことを考えるようになってから、私は渡来系天皇部族の系譜に連なっているのだろうなあと、そこはかとなく思います。それは、万世一系に連なる誇らしさというものではなく、先の戦争に対する天皇の戦争責任にも「(私なりに)始末をつけなければならない」と思ったり、藤原不比等が制作指揮をとったとされる「記紀神話」にも(どうしてこういう物語を紡ぐ必要があったのかを考えてみようという)責任を感じてしまっていたりするのです。おかしいですね。

 吉田満と島尾敏雄の対談は、津軽のどん詰まり感に対して鹿児島は開かれていると、話しが先へ展開し、琉球と接していた鹿児島の(国際情勢に明るいという)地政的優位性が、明治維新に際して「鹿児島藩があれだけ見透しが利いたのは、なんといっても世界を知っていたからですよ」と、有利に作用したことへと結びつきます。それはさらに、島尾が「ヤポネシア論」と造語して「日本列島を南太平洋の島々のひとつのグループとする区域概念」を提示してみせたことへとやりとりはすすむのですが、むしろ私は、そのやりとりの間に島尾が触れた東北と相馬の違いに目がひきつけられました。

 「相馬というのは東北のなかでは、浜通りで関東につながっている……。」と吉田が振り、島尾が次のようにつづけている。長いが、面白いので引用する。

「入口です。だから大分関東が入りこんでいます。あそこはちょっとグジャグジャですね。しかし福島県のなかでも、よく言えば根性がある。悪く言えば根性が悪いというのは、会津と相馬です。なぜ相馬のような小藩がそうなのかというと、あそこはあんな街道の途中なのに、頼朝の安堵以来大名が国替えにならない珍しいところなんです。(島津もそうだがあれはちょっと別格。対馬の宗氏もいるが)……相馬のような不安定な場所で大名が変わらなかったというのは、他には聞かないです。戦国時代もあるし、いろんな理由で滅びてしまうとか、それから徳川時代になったら、徳川氏はどんどん国替えさせましたからね。それで結局、相馬は動かなかった数少ない大名のひとつです。よっぽどうまく立ち回ったのか、生き残るための知恵があったのか。そして先祖は将門だと言っているでしょう。ヘンなところです、あそこは。六万石の小さなところですけれどね。まあ、人間は意地悪かもしれないなあ……。(……)仙台の伊達とのかんけいなんかも、ずいぶん危ないところまで行きながら、うまく切り抜けて……。伊達郡というのは相馬郡とくっついていますからね。仙台の伊達も元はそのあたりから出たんでしょう。」

 前回の「歴史の水脈」(1)(2)で述べた、osmさんのいう南相馬の開明性、進取の気性というのと重ねて読むと、「水脈」が頼朝のころ、いや将門までさかのぼる。まあ、こうなると遠景がぼんやりとして、蜃気楼のようにも感じられるから、みたいことを見ているだけなのかもしれないが、要するに私たちの現在が、累々と積み重ねてきた人の営みの上に(いつ知れず)かたちづくられ、受け継がれてきた気風のうえにあるのだと、つくづく実感する。

 追伸的に補足しておきたいこと。島尾のように「歴史の水脈」に目をやっていくと、明治以降の中央集権制で「日本」を一体化し、都会も地方も同じレベルの「一体性」で語るのは、ほんの高度成長によって達成された「中流社会日本」以降の、45年ほどをベースにしているにすぎない。しかもそのベースは、バブルがはじけからどんどん解体・乖離し始めてしまった。ことに21世紀になってからの中流の没落した社会である現在、都会と地方の懸隔を一元的に、近代の効率で論じるのは、明らかに地方に分がない。つまり、都会・宗主地域が地方・植民地域をどう遇するかという論議にしかならないのだね。中央官庁は「予算」という財源をもっているから、地方は中央に「理解」してもらわなければ、立つ瀬がない。民意というよりも、その地域の独立性のあたりを「歴史に水脈」に照らし合わせて言葉を交わすステージが設けられないものか。そんなことも感じた。

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