2017年4月8日土曜日

まさかスランプ?


 5日から、このブログに書き込みをしていない。忙しいわけではない。5日にはお花見をした。風もなく、日和もいい。山の会の人たちと浦和田島ヶ原のさくら草公園に集まった。サクラソウはちょうど見ごろ。背を伸ばしかけたノウルシの黄と緑に負けじと、鮮やかな赤紫の花を開いて威勢を放つ。その、サクラソウとノウルシ自生地のずうっと向こうに、桜が満開になって、周囲を取り囲んでいる。さらにその向こうの鉄橋を渡る武蔵野線の電車の音が季節を言祝いでいるように聞こえる。その桜の木の下にブルーシートを布き、それぞれが持ち寄ったおつまみとお弁当とお酒を開いて、3時間余を過ごした。もちろん2016年度の活動報告、会計報告をするという大義名分はあったが、山歩きのエピソードや感想、寄る年波の身体状況を話しているうちに時間が過ぎてしまった。むろん私は、飲み過ぎるほど飲んだのだが、翌朝は気分よく、予約の歯医者に足を運んだ。今日は抜歯と仮歯の装填。消毒と抗生物質を飲むように指示を受けて釈放される。さほど痛みもない。その後の食事にも不都合はないから、身体への負担はほとんどなかったといってよいであろう。


 ところが、帰宅してパソコンに向かうが、「お花見」の感懐を書き記すことができない。なんとなく興が乗らない。くたびれている自覚は、ない。へえ、こんなことってあるんだと思いながら、でも、無理をして書こうとは思わないから、「お伊勢参り」の「ご案内」を作成し、名古屋に住む「主宰者」に校正をお願いする。こうした実務的な文書の作成は、少しも苦にならない。それもひと段落し、お昼を済ませ、ふたたびパソコンに向かう。やはり興が乗らない。なんだろう、これは。

 図書館から取り寄せた小説を読む。津島佑子『狩りの時代』(文藝春秋、2016年)。「目次」がついており、《「狩りの時代」発見の経緯 津島香以》と、著者の娘(らしい)の文章が置かれている。まずそれに目を通す。この小説は津島佑子の「遺作」らしい。絶筆というか、未完だと断っている。編集者の判断で上梓することにしたようだ。四分の三ほどを今読みすすめているが、いまひとつピンとこない。ちょうど私の父親よりは少し若い世代の親を持っていた――したがって、この語り手は私より少し若い、いわゆる団塊の世代を想定していると思われる。津島佑子自身が1947年生まれだから、自らの出自に絡む形で語りだしているのであろう。だが、あきらかに暮らしの階層が違う。主人公ははっきりと都会のインテリ階層の出自をもち、戦後、伯父の一人はアメリカに招聘されて向こうの大学で研究生活を送る物理学者であったり、また別の伯父や叔父は大学の助手であったり、出版社の編集者であったりする。たぶんこうした出自が、観ている世界の違いを無意識のままに披歴して、「差別」の根源に迫る視線を手繰り寄せようとしているのだが、「差別」の表層を泳いでいるだけに感じられる。ま、全部を読み終わっていないから、断定するわけにはいかないが、ちょっと読むのが消耗って感じがついてまわっている。これも、ひょっとしたら、今の私自身の「なぜか興が乗らない」ことに起因しているのかもしれない。

 昨日は、歯医者へ消毒をしてもらいに行った帰りに街を歩き、図書館にも足を運んで、到着している予約本を何冊か借りてきたりした。街の桜は咲き誇り、折からの強い風に散り始めているのもある。入園式があったのか、幼稚園入口にはたくさんの親子連れがたむろしている。なかには、わんわんと母親の名を呼びながら泣き叫ぶ園児を抱えた父親がいて、困り切った様子で母親の後を歩いていたりする。散歩している年寄りからみると(親から離れることを嫌がる子どもの)これも微笑ましいが、当の父母からすると、ほんとうに困った子ちゃんだと弱り切っているのかもしれない。

 帰宅してまたパソコンに向かうが、書きかけてすぐに閉じてしまう。やっぱりまだ、興が乗らない状態が続いている。ひょっとしてスランプ? トランプはシリアを爆撃したけれど、あんな風にほかに対して憤懣をぶつけると「興が乗らない」スランプからも簡単に離脱できるのかしら。でもぶつけるといったって、誰にぶつけるよ。トランプにかい? それを支持する安倍さんにかい? どうも、そんなことでは始末がつかないように気がする。

 そうして今朝、寝床で、まだ少し「お花見」のお酒が残っているような気がした。三日目だよ。翌日も翌々日も残っているような気はしなかった。体がだるいわけでもない。ところが今朝、寝床の吐息にほんのりワインの感触があるように感じたのだ。そうか、それくらい飲んだのかというよりも、それほどに「(アルコールの)未消化」を感知する能力が落ちているのかと思った。三日遅れで疲れが出ていた山歩きと一緒で、「疲れ」を感じないのは「疲れ」ていないのではなく、「疲れ」がでないのだ。二日酔いがわかるほど酔いが表れない。つまり「酔い」を感じなくなっているのであって、酔っていないわけではないのだ。だから「酔い」が表に出ない。身体に出ないまま内面の「錘」が重くなるように「興に乗らない」スランプになって現れている。それが今日までの私であるように思える。

 明日から一週間ほど北海道の旅に出掛ける。主宰する人は呑み助だ。ほどほどに付き合うようにしないと、思わぬ長期スランプになるかもしれない。長引いて医者に診てもらうと、老人性うつ病などと言われたりするかもしれない。そんなことを考えながら、旅支度をはじめている。くわばら、くわばら。

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