2017年9月12日火曜日
流言飛語の真実性(2)具体的な実存こそ原点
「事実は実存に介在されて現実世界をつくる」というのは、子どもが自らの裡に何らかの法則性をつくりだして言葉をつかうことに関係している。このブログ(2017/6/17)で広瀬友紀『ちいさい言語学者の冒険――子どもに学ぶことばの秘密』(岩波書店、2017年)にふれたが、この本で小さな言語学者がどういう冒険をしているかを考えてみると、彼らの実存在の(体験)一つひとつを集約して何がしかの文法を構成している。向き合う相手から発せられる「ことば」の「事実」だけが吸収されているわけではない。実存在の関係を通して「現実世界」をかたちづくっているのである。どうしてそういう作業を行うのか。同語反復のように思われるかもしれないが、文法をかたちづくることが自己の実感的認知であり、自己の実存在を確かなものと感知させる作用をしているのではないか。つまりそれこそ、human natureの然らしむるところであって、まさに自然(じねん)だということができる。
だから前回振れることができなかったが、「上位20%と最貧20%までの階級的な違いが、社会活動における寄与の違いへの評価として現れている(*2)」「子細に(1-1)の結果と比べて見ると、上位20%の資産を少なくして、第3位の20%にと倍の配分をすることを示している(*3)」という二点は、こういいかえることができる。
(*2)は、人びとのあいだの「力」の差異を承認し、それに見合う報酬の(現実の)差異が奈辺にあるかという思いを表しており、(*3)は(理想的には)その差異がどの程度であることを望むかを表している。つまりこの感覚も、human natureに埋め込まれているということができる。
そう言ってしまうと単なる「性善説」を称賛しているように聞こえるかもしれない。だがそうは単純に、文化的な遺伝子は継承されていない。ウイリアム・バウンドストーン『クラウド時代の思考術』(青土社、2017年)は、ほかの興味深い調査も報告している。ホロコーストについて、100カ国で行った調査である。この書で報告されているのは五カ国の結果だけだが、「ホロコーストは正しく記載されていた」と回答したのはドイツもアメリカも79%であった。それに対して中国は42%、エジプトは6%、ヨルダン川西岸およびガザでは4%であった。ほかは、「ホロコーストは聞いたことがない」「ホロコーストは神話だ」「わからない」だが、「聞いたことがない」というのが中国31%、エジプト71%、ヨルダン川西岸およびガザは51%であった。つまり、それぞれの生まれ育った社会の「刷り込み」が如実に反映されている。学校で教えているかどうかだ。もちろんドイツとアメリカの数値が一緒でも、その出自は違うかもしれない。あるいは日本の南京事件のように「知られていない」こともあるかもしれない。それどころではない暮らしの渦中にいる人たちにとっては、ホロコーストのことなんてと話題にもならなかった、耳に入らなかったとも考えられる。
では逆に、教わっていればいいのかというと、それにも疑問を呈する調査結果を同書は報告している。「(自分たちが)選出した代表者名を上げる」(アメリカでの)調査結果。5割以上の人が大統領、副大統領、州知事、上院議員、下院議員、市長をあげたが、郡保安官や州検事総長、警察署長、州議会議員などを挙げたのはいずれも3割~2割という。これはメディアの「報道」ともかかわっていよう。そうしてバウンドストーンはこう結論付ける。
《知識と知的な意志決定との間には、ひとつのつながりがある。市長や州議会下院議員の名前を知らない有権者は、政治そのものに関して多くを知らないようだ。公職者が直面している諸問題やその業績、失敗、あるいは再選の骨折りに影響を与える刑事上の有罪判決などを、有権者は知らない。》
つまり、具体的に名前を知っているかどうかが、そのことへの「関心」と深いかかわりがある、と。これは先述した「ちいさい言語学者の冒険」とかかわるが、私たちが受け取る「情報」は必ずしも「具体的」ではない。「報道」は出来事の5W1Hを旨としているが、受け取るときには(それぞれのおかれている実存在に応じて)濃淡をつけて受け容れている。私に関して言えば、単に「見出し」だけのことが多い。いやそういう取捨選択を通して「現実世界」を構成する文法を身の裡につくりあげてきたのだ。そうでもしないと、世にあふれる情報の渦に呑みこまれて、おぼれてしまう。だから、そういう人に(私もそうだが)単に「事実を知らない」と謗るだけではなんのインパクトも受けないし、与ええない。それがトランプ人気の衰えない理由だ。
ヘイトスピーチもそうだ。ヘイトスピーチをする人たちに、具体的に誰のことをそう謗っているの? と問えば、たぶん、応えられない。彼らの内部につくられた「流言飛語」が「具体的な誰でもない誰か」というぼんやりとした対象しか持っていないからだ。そういう漠然とした「近代世界」が「現実世界」を覆ってしまった。私たちはその世の中で、あがいている。
わが胸に手を当てて考えてみるとよくわかるが、(わが胸中の)今の世は具体性を欠いた「情報」にあふれている。その方が、象徴的に受け止めたり、比喩のいろいろなレトリックに馴染んだりするのにも適応できる。それをおしゃれであるとか、知的であると受けとめる文化も、学校教育で馴染んでいる。逆にそうすることで、情報の洪水からわが身を守っていることもあるかもしれない。これは、しかし、実は大変大きな文法的作法だと、私は思う。つまり、実存在を通して「世界」を感知することというのは、まるごとの全体に、自らをマッピングすることなのだ。これはちょうど、哲学や科学が行ってきた分析的な、つまり細分化し分節化し解析して「世界」をとらえるというのと逆の方法が、実存在の確認には欠かせない。人は自らの「世界」を確立するために、分節化することと全体をまるごととらえることの、逆の方法をともに採用することによって安定的な自己を手に入れる、面倒な作業をくり返してきているのである。
だから、自らの心裡にかたちづくられた「流言蜚語」が「わが世界」を築くのは、当然のこと。逆に自らがいかなる流言飛語からも自由であるという思い込みこそが、世界を見る目を過つといえる。私たちは具体的に存在している(はずだ)。名前を知っている者たちの間でこそ、実在している。あらためてそこを想い起して、はて、(自分は)どう生きているだろうと自らを振り返ってみることが、自己存立の原点のように思う。まあ、この歳になっていまさら・・・と思わないでもないですがね。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿