2017年9月13日水曜日

感情の発露


 昨日雨の中、自動車の75歳・高齢者講習を受けに近くの自動車学校へ行った。70歳の時と違い、一組6人しか講習を施せないらしい。ただ事前に行った「認知症検査」を受け、ある点数以上の人しか同席しないから、状態がおぼつかない人はいないはとまるってこと。運転を見ていても、さかさかと教習所内の道路をすすむ。前を走る免許取得中の教習性に車に較べたら、かくしゃくとしている。教官は何かを言わなければならないからか、一時停止の仕方が甘いとか指摘する。乗っている私からすると、えっ、ちゃんと止まったじゃないかと思うが、「一時停止というのは3秒」と重箱の隅をつつくようなことをいう。そしてこう続けた。道路交通法が厳しくなって、「75歳以上の人が違反をすると、認知症検査を受けなくてはならなくなる。その上講習を3時間も」と、いやなことをくり返す。(俺の方がお前さんより偉いんだ)と誇示したいのだろうか。力関係を意識しないではいられない世界を生きてきた人は、往々にしてこういう権威をひけらかす。ああこの人も、かつて警察官であったか(と思った)。


 ただ一つ、自分で気づいたモンダイがあった。教官が左といったのをなぜか私は右と聞き違えて、そちらにウィンカーを出していた。教官は「一時停止」のお説教をするのに懸命であったから、私のそれに気づかず「はい、左ですよ」とくり返して、ことなく済んだ。やあ、危ないな、この私。

 目の検査も受けた。70歳の時と異なり、機械化されている。3500万円もしたということまで聞かされた。私らから5000円近い講習料金を取っているのだ。補助金があるかどうか知らないが、じゅうぶんお釣りがくるのではないか。静止視力、動体視力、暗いところでの視力も検査する。5年前と比べて、衰えているかと思っていたが、そうでもなかった。「動体視力は年齢よりはるかにいいですね」とお世辞をもらった。暗いところの視力は70歳時に「注意」を受けていた。今回も注意を受けたが、後で渡された検査結果のプリントをみたら、75歳の「ふつう」と表示されていた。

 自動車学校をでるときに雨はやんでいた。来るときは雨合羽を着て、リュックを入れる大きなビニール袋と、濡れた雨着上下を入れる小さなビニール袋を持参し、さらに傘までもって自転車でやって来た。それらを前かごに入れて、見沼田んぼの中を通り、3時半ころご機嫌で帰宅した。12時半集合の講習であったから、お昼を食べずに家を出ていた。お昼はこれからだが、いくつかの食材を買いに行く。なにしろカミサンが遠くに旅に出ていて、目下一人暮らしなのだ。早めの夕食と一緒にして、今日は供養をしなければならない。

 3年前に亡くなった長兄の80歳の誕生日なのだ、今日は。私は命日より、誕生日の方を大切にしたい。いつも、やはり3年前に亡くなった末弟の誕生日が近くなると、長兄は私に電話押して来て、末弟の仕事場に近いお茶の水で落ち合って、三人で誕生祝の夕食を共にした。そうそう、誕生日を祝うということ自体、やはり3年前に亡くなった母の振舞いで教わったものだったね。そう言えば、統計の生誕80年ということは、私たちの父や母が親になって80年ということでもあった。よくぞ男ばかり5人もを育てたものだ。戦争も、敗戦も、占領も、貧窮の社会の中で、親は親で頑張った。それに三男である私は何か貢献したことはあったように思わなかったが、長兄や次兄はまた違う感懐を懐いていたことを、いつか聞いたことがある。激動期の小さいころの歳の差は、決定的な経験の差になって現れる。私は寄りかかっていただけであった。

 長兄の好きであった赤ワインを開ける。グラスに注ぎ、一献捧げる。口にする前に、岡山に住む次兄に電話をした。「そうか、忘れていたよ。わかった今夜、俺も献杯するよ」と次兄。目下、カミサンが骨折していて、それどころではない様子なのだろう。話している途中で、私自身が涙声になる。おいおい、どうしてだと自分でも思うくらい、突然のことであった。長兄が亡くなったときも、「散歩に出たように思えて、涙が出ない」と記したくらい、私は長兄とのかかわりを坦々と受け止めていた(と思っていた)。それがどうだ。次兄に「長兄に一献差し上げてね……」と話しているうちに、涙が止まらなくなった。感情というのは(次兄と話すという)「かんけい」において発露するものなのだと、思った。

 そのあとで堺に住む、すぐ下の弟に携帯メールをする。すぐに返信があった。「今夜献杯します」と。その後少しばかり、近況のやりとりをして、心もちが落ち着いた。赤ワインは、ゆっくりと腸に沁みこみ、長兄のゆっくりとした「たしなむ」ような品の良い飲み方を、想いうかべていた。少しばかり彼岸の長兄と言葉を交わしたように思った。

 こういう供養がいい。

0 件のコメント:

コメントを投稿