2017年9月22日金曜日
魂という容れ物のなかを〈私〉が出入りする
昨日一昨日と二日間、やっと寝床で夜を過ごすことができた。夜中に一度か二度、「痛み」に目を覚ましたが、肩口に薄くジワリと広がる痛みの感触を感じながらもすっかり寝入ってしまった。良くなっているのだ。朝起きると「痛み」も目覚めるが、前夜よりは軽くなっているかなと思える。医者のいう二週間になろうとしている。今日は検診の日。手を上げ下げ動かして、どこまで痛みが和らいでいるかチェックしていた医師が「あれえ、関節炎でも起こしているのかなあ」と、まだ残る痛みに不審を懐く独り言をつぶやく。「痛まない範囲でね……こうして」と腕を前後に振る動作を教わる。リハビリらしい。こうして、「痛むかなと思ったら呑みなさい」という「痛み止め」を十日分、「まだ先が長いからね」と湿布薬を4週分もらって、「一ヶ月後に診せてください」と言われ帰ってきた。
右が利き腕だとはいっても、左手の備えがなければ、物が落ち上げられない。シャツの着脱も、長く伸びるランニングや少し大きめの化繊の半袖なら、ぐ~んと引っ張って頭を通せる。靴下を履くのでも、片手だけでは倍以上の時間がかかる。そういうわけで、この二週間ほどの間、それまで私がやってきていた家事のすべてを、カミサンにやってもらうことになった。片方の手が動かないというのは、文字通り「片輪」だ。不自由この上ない。これは差別用語だというが、実際そうなってみると、語源を実感させる。
昔読んだ何かにケガレというのは「欠落」を指していったとあったことを思い出した。医院への行き来の歩いている途中で網野善彦が思い浮かび、帰宅して『日本の歴史を読みなおす』をぱらぱらとめくると、あった。
《……ケガレとは、人間と自然のそれなりに均衡のとれた状態に欠損が生じたり、均衡が崩れたりしたとき、それによって人間社会の内部に起こる畏れ、不安と結びついている、と考えることができるのではないか……》
私の現在は「畏れ、不安と結びついて」いない。「治る」と期待できる。現在の不自由はカミサンがフォローしてくれている。しかしこれが、「治る見込み」もなく独り暮らしであったら、まさしく(当人にとっては)汚らわしくも避けて通りたい出来事に思えるであろう。
私の「畏れ、不安」を解消してくれているのは、医療と日々の暮らしのベースと街を歩いているときにも(左腕を吊具で補助しているだけで)ぶつからないように気遣ってくれる人々の、穏やかな心配りの行き届いた立ち居振る舞いである。つまり〈私〉は、この社会のシステムや規範や堆積してきた文化の融け合ったコトゴトが(その一片として)私の身に宿っている姿なのである。
帰宅して新聞を開くと、「折々のことば」の鷲田清一が、
《……臨床心理学を専攻する友人の、「身体こそ魂なのであって、魂という容れ物のなかを〈私〉が出入りする」という謎めいた言葉。……》
と書いている。前後の文脈はちょっとここでは触れないが、(そうだ、そうだよ。「身」というのが、体と魂のひとつになる表現と言ってきたことと一緒なんだよ)と、思わず快哉を叫びそうになった。
「身という容れ物のなかを〈私〉が出入りする」、その瞬間の「痛み」だったなあと、もう振り返る気分になっている。うっ、イテテ。
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