2017年9月20日水曜日

まるごとの存在を直感する生物的核


 今日(9/20)の朝日新聞「折々のことば」に戸井田道三のことばが取り上げられている。

《わたしには「生きがいを求める」というのがどうもうさんくさい気がします。いのちを軽んずる心が隠されているからです。》


 筆者の鷲田清一は、これにつづけてこう書く。

《「単なる生存」ではなくて、人として「意味ある生活」をしたいと考えるのは、いのちというものへの傲慢ではないのかと、能芸の評論家は言う。一つのいのちがここにあること自体が、他のいのちとの共生による一つの達成である。だから人の「生存」を「役に立つとかたたぬとか計ってはいけない」と。》

 鷲田は、単に戸井田の一節を解説しているだけにすぎないが、哲学者である彼が、この解説の本旨を展開すれば、ソクラテスが転換を図ったギリシャ哲学と、それを受け継いだヨーロッパ近代哲学の本筋を再転換させるような論展開になるとおもわれる。ソクラテスの転換が「人間主義」を胚胎させた。「ひとはなぜ生きるか」という問いは、世界の中心に位置する「特権」を人間に与えた。もしこの問いが「生きものはなぜ生きるか」という問いであれば、ヒトはその一つの種にすぎないと展開されることになったであろうし、ことばも思索も、ヒトの癖として位置づけられたに違いない。しかし人間を特権化したことによってユダヤ教やキリスト教との親和性のベースがかたちづくられ、ローマ帝国以来の曲折を経て、欧米の近現代へと流れ込んできたのであった。

 ヒトの癖である言葉と思索の生み出したソクラテスの問いは、「人の生きる意味」という限定された局面における問いであったにもかかわらず、ヒトの存在を魂と身体に切り分け、前者に高い価値を与えようとするドグマに囚われていることに気づかなかった。それどころか、魂、精神、理性を高みにおいて人間を特権化することによって、世界の統括者としての正統性を手に入れた。ヨーロッパ近代が十九世紀までにつくりあげ、二十世紀に仕上げた醜悪な混沌世界が、その精華であった。十九世紀末には、たとえば「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」というゴーギャンの作品タイトルに象徴されるように、ヨーロッパ近代は行き詰まりをみせ(強くカトリックの影響を受けていたゴーギャンはこの絵を仕上げたのちに自殺を図り、未遂に終わったが)、「まるごとの存在」へ道を拓くことになった象徴的なモチーフと私は受け止めている。

 では、分節化は意味がないのかというと、そうではない。「意味がある/ない」という問いがもっている限定性を見失わないことだ。もちろん「意味があるかどうかわからない」という、期待される問いへの答えと異なる回答も含めて抱え込むことによって、分節化がもたらした諸分野における考察や思索は広まり深まった。答えの出ないままに棚上げされてきた分節化の営みも、その営み自体が人の実存であったと受けとめることだ。利益を生むとか成果を上げるとか意味多い振舞いというのは、社会的にはわかりやすいかもしれない。だが、そこから外れる営みもあることによって、人類史は多様性をつくりあげ、その文化をDNAに刻み記してきたのではないか。

 戸井田道三の「うさんくさい気がする」というのは、ものごとのとらえ方の視界や位相・次元が固定されてしまって、動態性を失い関係性を忘失していることへの批判的直感が働いていると思う。私たちも、ときどきそうした直感を感じることがある。案外それは、生物的DNAの核が表出しているからではないかと思えて、安堵したりしているのだ。

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