2017年9月28日木曜日
政局という余所事
国会が解散したそうな。「国民の生活と子どもの未来を守るために・・・」と安倍首相が演説している。だったら解散なんかしないで執務に邁進しなよと、正直思う。「安倍政権の安定と未来を守るために・・・」と言い換えた方がよいかもしれないと思うが、それにしても、いま解散はヘンだ。
ところが「希望の党」というのが割り込んできた。と思ったら、民進党が解党的合流をすると、「満場一致で決めた」と報道している。まったく、何をしているんだろう。「小池新党」というのが有権者の期待を引き寄せるというのは、どういうことだろうか。たしかに、安倍政権の「不誠実さ」には飽き飽きしている。安倍首相が口にする言葉が(それが何であれ)全部空しく響くというのは、ある種の文化的規範意識が働いている、と思う。だから「解散となれば…」それ以外の「投票箇所」を探るのは、有権者の当然の振る舞い。それを引き受ける「イメージ」を持った政党が、ない。それが何だか未だわからないが、「また、これか」と分かっているものよりは、「未だ、わからないもの」に期待を寄せるというのは、庶民の性癖ではなかったか。案外日本も、イギリス同様に、経験則的にいろいろなことを試してやってみて、ダメなら後でまた(折をみて)修正すればよいという行動パターンを持っているのだろうか。ホンネとタテマエという対比で現実に起こるコトゴトを処理するというのやり方は、ある意味では、(気分の変わる)自分の移ろいを吸収するクッションとなっているのかもしれない。ただ、こういうクッションを置いていると、「変わったこと」への批判的検討が行えない。判断の基準が、情況に応じて移ろっていることを俎上に上げられないからだ。
それにしても、民進党前原代表の「解党的合流」というのが、すごい。清水の舞台から飛び降りると、どなたか民進党の一人が言っていたが、「政権交代を図ることができるなら、何でもする」という狙いがはっきりしているだけに、(財布を持っていながら)そういう行動をとるのは、ひょっとすると、水底の方での「勝算」を持っているからなのか。小池側が独自の判断をすると構えているのも、財源を持たないゆえの空威張りと見せているのかもしれない。そういうふうにみると、魑魅魍魎の「政局劇」だから、わしらは高みの見物するしかない。
それにしても、この政局が余所事にしか感じられないのは、私の政治に向ける感覚が狂い始めているからなのだろうか。それとも、普通の庶民の、(所詮いつでも余所事じゃないの、俺たちは)という現実的立ち位置を確認しているにすぎないのだろうか。
北朝鮮が攻撃を仕掛けるというのが「現実感を持たない」のと同じように、今の日本の政局も、「現実感」を持たない。なんだろう。どこか、スクリーンの向こうで、演者がそれなりの役割を演じて劇的に盛り上げようとしている物語りに思えて仕方がない。私たちが一票でもって「かかわる」というストーリーの変更でも見えてきたら、わがことと思えるようになるのだろうか。
でもなあ。政権交代しても、たいして何も変わらないんじゃないか。
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