2017年9月30日土曜日
なぜ「愛」を語るのか
コルム・トビーン『ブラックウォーター灯台船』(伊藤範子訳、松籟社、2017年)を読む。幼いころに亡くなった父、その父を看病するために力を注いだ母、その間、預けられた祖父母の家で過ごした弟との記憶。そして一つひとつの「記憶」がわだかまりを持ち、自分の生き方に見極めをつけさせる小迫力を持ち、母と同じ生き方はすまいと、首都の暮らしを築いてきた主人公が、弟の病気をきっかけに祖母の家へ行くことになり、母とも再会し、「わだかまり」をぶつけ合う。弟の友人二人を間に挟んで、寂びれた祖母の家で明らかになっていくコトゴトは、人生を振り返る「思い」のすれ違いと哀切さに満ちている。ここには「家族」しか描きこまれていないけれども、私たち人間が、こうした「かんけい」に生きていることを、あらためて想い起させる。
アイルランド文学の研究者である訳者の伊藤範子は、「あとがき」でトビーンの作品を読みこんで《……すべての人間関係について(の)探索は、”自我のためらいがちな内面化”によってしかできないことなのであろう……》と、彼の手法を特徴づける。そうして、この作品について、《この作品は人の心のよりどころ、愛を描いているのだということを私たちに教えてくれる》と概括する。
う~ん、どうしてここで、「愛」とか「人の心のよりどころ」を言葉にしなければならないのだろうか。この作品の底に流れるトーンを表していると(私が)思われる一節があった。長いが、とても感動的な印象を残した。
《想像、反響、苦痛、あこがれと偏見、こんなものは、絶対硬質の海に対してはまるで意味がなかった。それらは、風雪に食われて海水に洗われてしまう赤土、泥、乾いた崖土ほどにも意味はなかった。れらは消えてしまうというだけではない。それらはほとんど存在しなかったに等しいのだ。この冷たい曙に何の衝撃もなく海が曙の光に輝いて、ヘレンに衝撃を与えたこのうち捨てられた辺鄙な地の海の光景は、はじめからほとんど存在したことなどなかったのだ。彼女は、人間などいなかったほうがいいのではないか、この動く世界、輝く海、朝のそよ風、こういうものが目撃者なしなら、それを感じ、記憶し、死に、愛を求めてみる人間がいないなら、いないほうがいいのではないかと感じた。ヘレンは、黒い背後から太陽が顔を出すまで、崖っぷちに立ち尽くしていた。》
アイルランドがどういう風土の土地なのか、何にも知らない私なのだが、このトビーンの表現は、人を自然存在としてとらえ返し、(私たちも)宇宙のかけらとして存在している地平に立っていると思われる。それこそ、「愛」という物語に託して支えられてきたヨーロッパキリスト教的な世界観をきっぱりと抜け出してわが身を見つめる”自我のためらいがちな内面化”の第一歩を記している。
仏教的世界観がhuman natureをみつめる視線をやっと共有する哲学的地平に、手がかかったと思ったのだが、まだまだそこまで私たちがたどり着いたとみるのは、早いのかもしれない。
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