2017年9月27日水曜日
今日は働き過ぎ
昨日から越後駒ケ岳に登っていた山の会のメンバーから「無事下山、越後湯沢駅で祝杯をあげています」とメールが入った。よかった。はじめての避難小屋どまりということで、寝袋とガスやコンロを持ち込み、水を汲みに行って食事も全部自分たちで賄うという、(参加者にとっては)なにもかも初体験の山であった。直前に私が「化石人間」になっていけなくなってしまったが、すでに準備をしていた他の人たちが、自分たちで行ってくる、となった。kwmさんという60代半ばの女性をリーダーにして、参加者たちで(相談して)準備を整え、レンタカーも予約して実施した。
「いってきます」と出発したメールを頂戴したばかりか、「山頂に着いた」とのメールも来た。通信ができるのだ。朝は「これから出発」と下山開始のメールも来て、最初の到着メールになったわけだ。めでたい。すっかり自立した。私からみると、心強い山仲間ができたようで、この先独りで行かないでも良くなるのかもしれない。
一昨日、昨日と、今週末のseminarの準備にかかりきりであった。「Seminar通信」も出してSeminarに参加できなくなった人たちの「近況」も伝える。A4版2枚。11月の「お伊勢参り 現地Seminar」の実施日程を作成する。こちらもA4版2枚。今回のseminarの講師は私が務めるから、その「レジュメ」と「資料」を用意する。レジュメはA4版3枚だが、「資料」は、「お題」に関連して私が書き綴ってきた文章を編集して冊子にした。A4判で32ページ。400字詰め原稿用紙にしたら120枚はあろうか。全部でA4判39枚にもなった。何だかもう、Seminarが終わったような気分だ。
ただ一つ、気にかかることがある。動物のもっている「感情」とヒトがもっている「感情」とは、どこがどう違うのだろう。犬や猫が何がしかの「感情」を持っているように見えるのは、単に、人間が自己意識を投射しているからではないだろう。動物が(例えば食欲などの)生理的欲求を充たすときに、「うまい/まずい」と思っているとは思えないが、といって腹がくちくなるならなんでもいいという食べ方をしているとも思えない。好き嫌いは「感情」だろうか。
ヒトの「感情」には思念が張り付いている。つまり生理的に「感じて」いることが「ことば」になって「感じられる」という段階を踏まえる。羞恥心というのも、外部から自己を見る視線を持つから生まれる「感情」である。わが身を鏡に映すようにみることによって発生する「感情」は、「自己―他者」との関係を表現する。つまり「こころ」が「かんけい」を感知する感性作用だとすると、「かんけい」的に物事をとらえる「感覚」とその実存的表現である「感情」とは人間に特有のものと言っていいか。そんなことをSeminarで話して受け入れられるか。そんなことを考えながら、レジュメを読み返す。
肩の「痛み」は、なくなったわけではないが、ずいぶん軽くなった。どんよりと肩のあたりに「痛み」の素が滞留している。ある部分を押さえると「痛い」。だが放っておくと、いつでも発動しますよという感触だけを静かに発信している気配を感じる。夜は何度か目を覚ますが、おおむね穏やかに熟睡している。「しっかりよくなっていますよ」と外から見るカミサンの声に励まされるわけではないが、片手でタイピングしていたことを思うと、たしかに、格段に良くなった。今日は働き過ぎだ。
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