2017年9月19日火曜日
使わなければ錆びる
昨夜やっと半分、横になって寝ることができた。体を起こしているときはそれほどでもない痛みが、横たえると熱を持ち広がるように思える。半醒半睡の状態で朝を迎える毎日であった。昨夜も同じ予感を抱えて、しかしリクライニングチェアではなく、寝床についた。痛みを強く感じて起き上がったりまた横になったり何度か繰り返して、5時間ほどを過ごした。そのあと夜中に、リビングのソファに横になってタオルケットをかぶってから楽になり、5時間ほど眠った。久々に「寝た」と思った。
「少し軽くなったんじゃない」とカミサンはいう。確かに。午前中は少しだが、本も読むことができた。月末に開かれる「18年前の教え子たちの同窓会に出席できないご挨拶代わりのメッセージ」も片手でタイプして、送信した。溜まっていた、そのほかのメールへも返信をすることができた。
また横になりうとうとと考えたのは、「利き腕が痛くならなくてよかったね」というカミサンのことば。まてよ、それは違うんじゃないか。左肩にカルシュウムが溜まったのは、ひょっとすると左腕を使わなかったからではないのか。以前五十肩になったとき上げ下げすると痛みが走るので動かさないようにして、いつしか治っていた記憶がある。でもそれは痛みが起こってからであった。今考えてみると、ふだん利き腕ばかりを使っていて、そうでない左手は基本的に使わないできた。使わないから錆びる。カルシウムは身体の酸素のようなもの、それが溜まるというのは使わない部分が酸化して錆びつくということではないのか。医者は「なぜそうなるか」をわからないと応えていたが、案外、そのような単純なことのような気がする。
ということは、痛み止めの薬は「錆びを洗い流すクレ556」のようなものか。ひどい錆び部分だから一度や二度では浸透しない。何度も使って浸透させ少しずつ洗い流していく。そんなふうに作用しているのではないか。
そう考えると、日ごろ使わないところを動かさなくてはならない。毎朝私が新聞を読んでいる間にカミサンがやっているテレビ体操なんかも、わずか10分ほどだが、身体の使わないところをうごかすようにしている。自然(じねん)にするということは、自ずからそうなることに任せるということではなく、利き腕とか利き脚とかバランスとか、己自身の身が持ち来っている「傾き」とそれがもたらす「不作用」をも承知して、動かしてやることかもしれない。すこし心をあらためて我が自然になるほどに朝の体操でもしてみようか。
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