2017年9月25日月曜日

「迷子散歩」


 昨日(9/24)は久々の晴天。しかし気温も26度ほど、湿度も低く、日陰に入れば涼しいくらい。やはり2時間くらい散歩に出た。首から下げた双眼鏡は使うことはなかったが、わが家から北へ向かって高木の林になっているところをたどり歩いた。ときどき広い道路に出て、自分がどっちへ行っているのか、どちらへ行こうかと迷うことがある。去年までなら日差しのつくる影と時計をみて方角を察知し、この近辺の大きな図柄を思い描いて、進む方向を決めた。今年はスマホを出してGPSでチェックする。去年までの方が「散歩」というイメージに近くスリリングだなあと思う。そうか、ふらりふらりと「森」をたどって1時間余歩き、(はて、いま、どこにいるのかな)というときにスマホを出して居場所を調べ、帰りの道を探るとすればいいのか。「迷子散歩」だね。まだ認知症にはなっていないが、それの予行演習みたい。そう考えると、それはそれで面白そうだ。次回からそれでやってみようと、つまらないことを考えていた。


 帰宅してPCを開いたら、ひょんな行きがかりで「2016年のお彼岸に記述」というのがモニターに現れた。なんと、「化石人間」になってもいないのに、今年の私と同じようなことを考えている。脱水症状を経験して「反省」しているのだ。ちょっと長いが、ほぼ同じことだ。

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 ところが涼しくなると、この、身体が要求する強さが弱まるから、水分摂取を忘れてしまう。つまり、自分の身体が年とともに、自然(じねん)では調節できないようになっているのだ。これ自体がもうすでに、古稀の年代に入っていることを証しているように思える。もう、自然の摂理から外れて、長生きしすぎているんだよ。だから、頭で考えて、手入れをしてやらなければなりませんよ、と。

 こういう発見は、じつは、いろいろな場面で何度もしているのだが、気候が良くて調子づくとつい、忘れてしまう。自然の「気候が良い」ということも、もう私たち年寄りには、「よい」だけではすまなくなっているともいえる。「己の欲するところに従ひて矩を超えず」というが、「欲するところ」自体が衰えて、身体の必要とするところを感知することすらできなくなっているのだね。よほど身体の自動調節作用を鍛えておいた人でないと、あちらこちらにどんどん不調和が発生する。いくぶんかでも恢復力があれば、ちょっと躓いた程度で、持ち直すのであろうが、身体の自動調節作用などというものは生活習慣だから、この歳になると「ほぼ体質」と同じになる。それを「鍛える」には何十年とかかる。もう間に合わない。

 では、どうしたらいいか。「ほぼ体質」が外科療法的に手当てできることなら、わりと簡単だ。躓いたら、薬を使うこともできよう。「ほぼ体質」を理解してもらって、カミサンに面倒を見てもらうこともできなくはない。「お茶は飲んだ?」「薬を忘れてない?」「はい、果物も食べなさいよ」と。でも……、ウルサイ。となると、目につくところに書き付けておいたり、薬ケースに日ごとに分けておいて食後に手が行くように「習慣づける」。服薬はこうやって、なんとか「生活習慣」にした。だが、お茶と果物は、まだそうなっていない。

 いまさら(鍛えるか)、とは思うが、外部的に「用心装置」を整えていると、身の回りが雑然としてくる。「身辺整理が行き届かなくなると、認知症の心配がある」とこれまた世間の放送局がやかましい。これも外部装置といえばいえるが、それに耳を傾けることは「ほぼ体質」にない。余計なことは、やめてくれえ。

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 いや、全然「反省」なぞしていない。「いまさら(鍛えるか)」と心情は「(気分の)じねん」のままに放置しておこうという気配だ。そうか、これが一年経って「カルシュウムが溜まる」かたちに結晶したのだ。となると、「もう間に合わない」などと言っていないで、普段使わないところを動かして、錆びつきを解消することは、生活習慣に仕上げなくてはならない。それをつづけることで、何とか今年の「化石人間」から離脱しなくちゃならないと、今年の「反省」をした。

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