2017年11月10日金曜日

「わたしの発見」が人生の本質である


 宮下奈都『田舎の紳士服店のモデルの妻』(文藝春秋、2010年)を読む。同じ作家の『太陽のパスタ、豆のスープ』『羊と鋼の森』についてはすでに記した(10/21、10/26)。『田舎の……』は、『太陽のパスタ……』の前段にあたる《「わたし」を発見する物語》といえる。『太陽のパスタ……』は、「わたし」発見後の、「わたしの自立の根拠」をとらえた、と読み取った。


 (たぶん)いいとこの育ちのお嬢さんがいい男を見つけて結婚し、子をなし、夫の病に付き合って田舎に暮らすことになり、「わたし」を失ったような失望を味わう。その、うらぶれた毎日の暮らしの中で、薄皮をはがすように「わたし」が立ち現れる。子どもとの関係、夫との関係、都会に暮らす元ママ友との関係、ご近所の田舎の人たちとの関係の一つひとつが、どれをとっても「わたし」であることの発見につながる。そうしてついに、「わたしはひとり」という確信に至って、わたしの居場所を確定するという物語。

 面白い。時代的な移ろいをとらえていながら、じつは、人間存在の根柢に脚をつけるような視線を持っているのが、好ましい。軽妙洒脱に読めながら、読み終わった後に、そうだよな、そういうことを経て「わたし」ってわかるんだよねと、共感を禁じ得ない。若い人たちならどう読むだろうと、余白が考えている。すでに私は、いまさら「わたし」をうんぬんする歳ではない。わが経てきた痕跡を見出して、そうそう、そうなんだよと思いつつ、若い人たちは、この作品をどのように受け取るだろうと、ちょっと聞いてみたいような気がした。

 何より普遍的と感じたのは、「わたし」というのは「他者」によって発見されるということ。でも「他者」はふつう、それがあなたの「わたし」ですよとは、言ってくれないから、「他者の眼」をわたしの中に育てて、その目をもって「じぶん」をみる。そうすると(じぶんの胚胎する)「他者の眼」というのがそもそも的を射てるのかどうか不確定であるから、「わたし」自身も不分明となる。それが、育んできた「願望」や「希望」や「欲望」の「わたし」と齟齬する。ますます不安になる。不満を持つ。できれば非日常へ飛び出したくなる。そういうかたちで「わたし」が落ち着いて確認できる地平が、「わたしはひとり」と認識するところにある。

 わが子が成長する過程を母親は(客観的には)外から見ている。その母親を作家はやはり(客観的には)外から見ている。そうして読者である私はやはり(客観的には)外から見ている。つまり、「わたし」が(子どもにとっては)どう成長するか、(母親にとっては)どう変化するか、(作家にとっては)どう表現するかを、それぞれ外からの視線をもってみている。それを「発見」だと思う。人というのは、そのように時間をかけて成長し、変容し、いつしかその過程で育んでしまったわが身の「かたち」を、自ら発見することを「人生」として行っていると、後期高齢者になった私は、ほぼ確信している。常々私は、それを「じぶんの輪郭を描く/世界と描きとる」と言ってきた。その私の確信と同質の「わたしの発見」を、宮下奈都の、この作品に見出したというわけ。

 こういう過程を丹念にたどって表現する作家がいることを、私はうれしく思う。ここに、アルゴリズムの思考ではけっして手に入れることのできない「にんげん」の本質があると、別の本を読みながら強く思う。その別の本のことは、次回に書いてみようと思う。

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