2017年11月24日金曜日
子どもの生きる世界とか
イタリア映画『はじまりの街』(2016年)を観る。夫のDVDに耐えかねて、子どもを連れて女友達のすまいのあるトリノへ移り住む。仕事を探し三交代で働く。13歳になる子どもは、突然友人とも切り離され、新しい街にともに遊ぶものもいないままに、自分の居場所を探す。その地に住む「外国人」という元サッカー選手、街の娼婦、なによりも同居を喜んで迎え容れてくれた女友達との交歓が描き出される。だが観終わって、[だからなに?]という疑問が浮かぶともなくつきまとう。何が言いたかったのだろう。
この映画のチラシは「心優しい人たちが紡ぐイタリアから届いた感動の人間ドラマ」と手放しでほめちぎる。ま、そりゃそうか。宣伝チラシがほめちぎらないでどうする、だね。だが「この世に人生ほどいいものはない」って、何だか前世紀の遺物のような物言いだね。映画事情に詳しいわけではないから、これがイタリア映画の新しい目の付け所とも思えない。観ている日本の凡人としては、何だイタリアも日本も、同じようなものだねと思っている。
もし何か一つ、テーマとなるものを観てとるとしたら、子どもの世界は子ども同士でしかつくれないということか。でも、それが描かれているわけでは全くない。トリノに移住して、学校でも孤立的(なぜそうなのかは全く触れていない)なヴァレリオが、街の(大人の)「心優しい人々」のかかわりがあったからと言って、子ども自身の内的な世界はちっとも充たされないと描いてはいる。
もう一つテーマらしきものを拾うとしたら、母と息子の「思春期(自律期)」の関係のありよう。この母親アンナはヴァレリオの自立の心的動きを感知していない。もちろん暮らしを立てていくための算段に精一杯であるから、そんなことは要求しようがないのだが、それを意識してこの映画がつくられているかというと、どうもそれほど意識の視界に入れているとは思えない。日常的にそういうことってあるよなという程度の触り方に思える。
いや、そういうテーマを求めるってのは野暮ってもんだよ。トリノのイタリア人の日頃の暮らしぶりが浮かび上がって、そこで交わされる人と人との情の交歓が描き出されていれば、それで十分ってもんじゃないのかと声が聞こえてきそうだ。そうかもしれない。そういう目で見れば、日本とそう変わらないじゃないの、イタリアって。私のこのエッセイと同じで、日常の一部を切りとって、ポンと提示してみせた。その日常が無意識を反映していて、監督ご本人も気づかないことが描きこまれているかもしれないじゃないか。そういう手法って、身を捨てて浮かぶ瀬もあれっていうのと同じで、面白いんじゃないの。ま、そういうエッセイみたいな映画が気軽につくられているよというメッセージだったのかもしれない。でも、わざわざ遠くまで足を延ばして観に行くような映画だったかどうかは、相変わらず疑問のままだ。
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