2017年11月22日水曜日
怨霊なんて怖くない、か
森見登美彦『夜行』(小学館、2016年)が図書館から届いた。去年の今ごろ上梓されている。たぶん何かの書評をみて、気になって予約したものが、今ごろ届いたのであろう。でも初めの方を一読して、やめようかと思った。こういうファンタジーものというか、落ち着きどころのない妖異譚は何を言いたいのかわからなくて、持て余す。人が消える。ふと現れて違和感を齎し、場をかき混ぜて姿を消す。妖しいが、だから何なのと思うほど、危害を加えるでもなく祟るでもない。でもなぜか、人の心裡を覗いているように言葉を紡ぎ、不安に陥れる。不安にさせるだけなのだが、なぜそうさせるのか、なぜそうなるのか、わからない。四編に別れた連作ものだが、最後になって、謎が解き明かされる。裏と表、昼の世界と夜の世界、陰画と陽画が変わるだけの、どちらに身を置いて語っているのかが不分明であるが故に生じる、読み手の不安感や違和感。何だか、もてあそばれているようで、だから何なのと聞きたくなる。読み終わっての感想。さもこの作家は、その身をどこに置いているのであろうか。
昨日このブログで『伊勢の曙光』という本に触れた。伊勢神宮が、彼岸と此岸の彼岸の世界を体現するように設営されているというのは、なぜそうしたかはわからないが、死霊とか怨霊のあった気配を証拠づけるように思われる。そして伊勢のことに触れれば触れるほど、私たちがすっかりそれを忘れて暮らしていることが浮かび上がる。振り返ってみると、子どもの頃は暗闇が怖かった。夜が恐ろしかった。トイレに行くことも怖くて、誰かについて来てもらうか、我慢して夜が明けるのを待ったことも思い出す。どうしてあんなに、夜の闇が怖かったのだろうと、今ならば思う。それだけではない。子どものころは、まともな人生と踏み外した人生という「闇」も感じていた。タバコやヒロポンやバクダンやアヘンやマヤク漬けになって、生ける屍となる「畏れ」を胸中のどこかに宿していた。町にやってくるサーカスや大道芸人などの旅芸人に気持ちを魅かれると恐ろしいことが待っていると、心裡のどこかで思って「恐がって」いた。いまでも子どもはそうなんだろうか。
いや大人になったいまでも、夜の闇は怖い。山中のテントに独り居て、目覚めたとき、外を動き回るものの気配や風がたてる音は、わが身のすぐ脇で、別の世界が展開していると思わせる。冬の雪の中のテントで、しんしんと降る雪がテントをつぶしゃしないかと心配する怖さとは全然別だ。後者は、何が起こるかが目に見えている。それに対して、わが身は寝ているのに、それと関わりなく別の世界が展開しているというのは、わが身がどうかかわるのか見えてこない。お化けや妖異の何かが跳梁跋扈していないとも限らない。そういう想像の世界が「闇」には伴っている。でもそれは、想像の世界のこと。そう切り分けて心裡に始末するから、恐くはない。だから子どものころの「闇」や夜は始末のつかない「ことごと」がたくさんありすぎて、日々の体験の一つひとつが(胸中の世界に)落ち着きどころを得るまでは、恐いモノやコトであり続けたのであろう。
歳をとると、そういうことがあまりない。しかも快適な暮らしの中で、わが身に起こることの「せかい」の輪郭が、割としっかりとしている。不安なこともおぼろなことも、地図や全体構成や物語りの転結を見極めて自分のいる位置が定まってみえると、たいてい端境が見てとれる。「闇」はたいてい「じぶん」の闇だとわかる。不安も、自分の想いから引き出されてきていると読める。これはつまらない。だが、人生をそのように生きてきたのだから仕方がない。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿