2017年11月13日月曜日
さばさばした人生を送るには
縁戚の方が亡くなった。認知症を患い、介護ホームにいるとは聞いていた。体は壮健であったから、穏やかに暮らしていて、ホームのなかでは優等生ですよと言われたくらい。しずかに振る舞い、手がかからないし、明るい。ひところは子どもの顔もわからないほどと言われたりしたが、最近は子どもの顔はわかるようになっていたそうだ。ただ言葉が浮かばず、目でものを言っていたという。認知も、時と場合によってまだらなのかもしれない。84歳と約半年。仏教式に享年を言えば、85歳ということになる。直接の死因は誤嚥性肺炎というが、病院に入ることなく、介護ホームの医師が診たてて、亡くなる前に子どもたちは会って、目で言葉を交わしたということであった。
じつは息子の嫁の父上。私のケイタイにかかってきた電話に出られなくて、手が離せないわけを伝えると折り返し、その友人はメールで「岳父のご逝去……」と書いてきた。「ヨメ」というのが関西圏では(じぶんの)カミサンのことを指すことをすっかり忘れていた。もちろん訂正したが。息子が結婚したり遠方に遠征したりしたときには、見送りや帰国歓迎の折にお会いしたし、何年も前になるが、息子夫婦の計らいで、夏に霧ヶ峰でお会いして周囲の山歩きをしたこともあった。だが私自身が、お付き合いは不器用で、あまり人の現役時代のことを根掘り葉掘り聞くとか、世間話をしないものだから、詳しくは知らなかった。私の息子も、聞かれなければそのような話をしない性分だから、わからないまま。せいぜい、よく知られた機械製作の大会社に勤める技術屋さん、インフラ機械関係の仕事をしていて、世界各地に出向いて設置する仕事をしてきたと思っていた。
むろん言葉を交わすときに、具体的な国名や会社名や設置したインフラ機械の名称などは言わないままに、それぞれの国の習俗やタービンなどの扱い方を伝えるのに苦労したことなどが、ぽつりぽつりと言葉になり、なかなかすごい人生を送ってきた人だと、敬服しながら聞いたものであった。だが今回葬儀のときに、喪主が書き記した「挨拶状」によると、大きな機械製作会社の火力設計部にいたこと、モーターやタービンの製造に携わったこと、四十歳代でその大会社の本社の本部長に抜擢されたこと、その後工場の副工場長に任命されたこと、その間に、ボイラ装置で科学技術庁から発明奨励賞をもらったり恩賜発明賞を受けたりし、国立大学で(機械工学の)学生の指導を(たぶん臨時的に)行ったようで、工学部長からもらった「感謝状」があった。最後には、その大会社の系列会社の社長を十年も務めたとわかった。具体的に配属されていた立場などが加わると、私の敬服の密度も大きく比重を変えるように感じられた。と同時に、もう少しいろいろな話を聞いていればよかったと、思ったりもしている。
私のそのような感懐とは別に、《仕事一筋のまったく悔いのない幸せな人生でした……ゴルフや山登り、囲碁も楽しみましたが、仕事に打ち込んだ日々がもっとも輝いていました》と亡夫のことを記す喪主の心裡には(家庭をあまり顧みない昔風のワンマン亭主)の風情もあったかもしれないと思ったのは、私の勝手な思い込みかもしれない。だが家族と一緒の写真や、退職後に一緒に山歩きをした山頂での写真をみると、長い人生のいろんなことが、「終わり良ければすべて良し」と言えるほどにこだわりを捨てて、「集約」されるように思う。
というのも(私の感懐とは別に)葬儀は家族葬的に取り仕切られ「香典はご辞退」という遺志を貫かれ、ほんとうに簡素に通夜と告別式が執り行われた。故人の兄と妹たちが田舎から駆けつけ、喪主の姉妹が寄り集まり、喪主と子どもたちとその家族が喪主を支えて切り回すのだが、会社関係の方々はほんの3名だけ、ひっそりと静かな斎場の様子は、故人のさばさばとした生き方が反映しているのかと思われるほど気持ちよく質素でありながら、見送る人たちのやわらかい心持ちが湛えられた温かさをもっていた。
その場に身を置いている私は、いつか自分の身に重ねてみていた。孫や子に、兄弟に、このように見送られるのも、悪くない。故人の歳まで生きるとすると、あと9年の間に「さばさば」とした気風を(私にまつわる)「かんけい」いっぱいに充たすように振る舞わねばならない。それには、断捨離も必要。今から手をつけなければ、それほど時間の余裕は残されていない(かもしれない)。そんなことを考えながら、お見送りをしたのではありました。
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