2017年11月14日火曜日

「わたし」が現れるものがたりに揺蕩う


 宮下奈都『スコーレNO.4』(光文社、2007年)は、この作家の外の作品同様に、「じぶん」の周りの人のありように映し出される「じぶん」を、不確かさとともにとらえようとして掬い切れず、手のひらから零れ落ちる様子を描き出している。自己確立とか自己実現・自己責任という言葉を使う人たちは、「自己」が実体的にかたちづくられると考えており、それを個性と称しているように見えるから、自分の意見を慥かに持って自己主張をしていくことを自己の確立とみているが、そこの根柢には能動的に振る舞うことが主体性の確立であるという「偏見」が横たわっている。「じぶん/ほかの人」というのが「かんけい」から生まれることを、そして出現する「じぶん/ほかの人」が、しっかりと違いをもって立ち現れていることも、じつは「ほかの人/じぶん」の胸中にあると、その頼りない根拠へと迫る運びになる。つまり宮下奈都は、積極性ばかりか消極性も、つまり能動性も受動性も、超えたところに「じぶん」が現れることに関心を寄せ、その動態を描き出そうとしていると、私は読んでいる。私は自己の輪郭を描くと言い、それはすなわち「せかい」を示し、そこへ「じぶん」を位置づける(マッピングする)ことと同義だと考えてきた。この作家を好ましく思うのは、文学のかたちを通して、つまり一般化せず、ていねいに具体性を通して、拾い出していることである。


 そんなことを考えていたら、國分功一郎『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院、2017年)が、「能動―受動」という二項対立はソクラテス以降に生まれた思考型であって、それ以前のギリシャには「能動態―中動態」というのが一般的にあり、その中動態を分節化していくうちにそれを排斥する「能動態―受動態」が固着し、近代になってほぼ定式化し、「中動態」が忘れ去られてきたと、子細に論じているのに、出逢った。そうだ、「わたし」の発見は、この中動態の考え方を受け容れれば、容易に理解できると、私は感じている。丸山真男が「であることとすること」と論じた日本の思想の弱さも、中動態を導入して考えると、「なる」ことと「する」こととの間に、「受動―能動」という二項対立を設定する理由がなくなる。あるいは、「主体subject」が、もともとのかたちとしては「be subject to ~」という受け身のかたちからはじまっていることを、自己の外部の絶対者との関係にマッピングしてはじめて主体は起ちあがると、絶対神を想定して回りくどく考えてきたのだが、中動態という視線を入れると、日本的な自然信仰でも、十分「主体」が出現すると、考えるようになった。そこには、もう少し踏み込んだ、自己定立の論理が浮かび上がると思うが、それはそれでまた別の機会に考えようと思って来た。

 ところがそれを、論理的に解き明かそうとしているのが、河本英夫『〈わたし〉の哲学 オートポイエーシス入門』(角川選書、2014年)であった。「オートポイエーシスとは、プロセスのさなかで自分が出現し、自分自身になり続けるシステムの枠組みである」と、まず規定する。日本語にすると「自己創出」というか「自己制作」というか、自己を定位するしくみ(パラダイム)と呼ぶのが、妥当であろうか。國分功一郎の著作以前に河本は「中動態」という視線があることを指摘しているから、國分に教えられた私が遅いのではあるが、「かんけい」的にコトをとらえる方法が、すでに学的世界では常識化していたのだ。

 面白い。こうして目にする本が、ひとつの糸に導かれてつながってくるのは、世界が慥かさをもって感じられるようである。いうまでもなく、さらに一歩先へ踏み出すと、その慥かさはまた、おぼろになり、ゆらゆらと揺れるのではあるが、こういう浮遊感は、揺蕩うというのではないかと、心地よく思っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿