2017年11月5日日曜日
石垣島(2)自然と一体になる暮らし
石垣島の探鳥の案内役Mさんのありようを観ていると、鳥の専門家というよりも、石垣島の自然と一体化して存在しているという思いが強くする。彼の牧場を見せてもらったというほど見たわけではないが、彼の「本業」といわれる牛との向き合い方をみていると、「仕事」というよりも、それなくしては暮らしそのものが成り立たない「生業(なりわい)」と思われた。なるほど生産と流通の流れでみるだけなら、育牛が仕事なのであろう。だが、仔牛を生ませ9か月育て「和牛」として出荷するというだけなら、もっと効率的に、もっと生産能力をあげられるように工夫する余地があると思う。実際酪農の現場でも自動機械化がすすんで、人手を省き、牛舎の清掃や給餌を機械任せにすることが「最先端」とされるようになってきている。むろんその規模と資金がなくてはできないことではあるが、Mさんはそうすることよりも、野において育て、牛たちの間を何種類かの鳥たちが虫を啄ばんで右往左往しているのを見るのが、何より好き、仔牛の間は手間をかけ慈しんでやるのが大切と思っているように感じられた。彼自身が石垣に生まれて育ってきた在り様と重ねて感じているように思ったのは、単なる私の錯誤ではあるまい。
Mさんは牧草地の片隅の森近くに水溜りをつくり、観察舎を手作りして黒い紗の覆いをかけ、そこからやってくる鳥などを「観察」し、カメラに収めるようにしようとしている。ホースを引いて水の流れをつくっているのを、いずれ噴水にでもして、鳥たちが喜ぶような処にしたいと話していた。その姿はまるで子どものまんまのようであった。
もちろん「生業」は、心優しいロマンティックな物語で彩られるわけではない。母牛を妊娠させ仔を産ませ、それを肥育して9カ月ののちには出荷するという、命をいただいて暮らしを立てる私たちの「自然(じねん)」の冷徹な「生態系」を体感するように組まれている。だからこそ、自らの「じねん」と「しぜん」とを重ね合わせて「暮らし」として一体化する、彼一流のありようの「本態」が欠かせないのだと思える。分業と商品交換によって、すっかり「自然(しぜん)」から切り離された都会生活を「身」につけてしまっている私たちからすると、冷徹な「生態系」の汚れた、臭い、厳しいところを埒外の人々にことごとく任せてしまって、素知らぬ顔で、うまい、清潔な、楽しいところだけを頂戴している本態を、つくづく実感させられるようであった。
バードウォッチングをして回ったくらいで自然に浸っていると思うほど大きな勘違いはないと、Mさんの在り様が示す「神髄」を受けとめた。はたしてMさんがそう思っているかどうかは、聞いてみなかったのでわからない。だが機会があれば、いつか再び石垣島を訪れて、島と一体化したMさんの「暮らし」の傍らに居させてもらいたいと思った。
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