2017年11月30日木曜日
自分のことばを手に入れる人生
宮下奈都『窓の向こうのガーシュイン』(集英社、2012年)を、旅の往き帰りに読んだ。人の輪郭を描かせたら、この人ほど心裡に沁みとおるように言葉を紡ぎだして、揺蕩う様子を浮き彫りにできる作家を、私は知らない。彼女の作品を、ここのところ何冊か読んで私は、そう思うようになった。ちょうど私が、AIに関心をもって本を読んでいたこともあって、AIと人間との違いは何だろうと、心裡に疑問符を持ち続けていた。それもあって、宮下奈都の作品の描く人間イメージがもっとも的確だと思ったのだ。AIとの対比では、作家ご自身としては褒められたように思わないかもしれないが。
今回のシチュエーションは、未熟児。両親の貧困ゆえに知恵遅れのままとなった(と思われる)一人の少女が、世の中の白眼視のなかで、しかし、それをどう位置付けていいかわからないままに大人の女性に成長していく。そうして、世間の主たる流れから離れて(いると自覚して)生きていきながら、人との関係の中に自らを発見し、世の中に位置づいていく「核心」を手に入れる物語り。自らの境遇を嘆くでもなく、かといって他者を謗ってわが身の安心を定位するでもなく、いつも(世の中の)中心からはずれていることを意識しながら、しかし、きちんとわが身をとらえる言葉を紡ぎ続けて、他者との関係の中に浮かび上がらせていく。
表題の「ガーシュイン」は、ジョージ・ガーシュインの「サマータイム」。五十年以上前に口にしたことのある私の好きな歌のひとつ。〈さあ~ま たあ~いむ〉というエラ・フィッツジェラルドの声が前頭葉に響いてくる。
夏が来て、暮らしは楽
魚が跳ね、綿花は高く背を伸ばす
あんたのお父さんはお金持ち、お母さんは美人
だからさ、よしよし、泣くんじゃないよ
これがじつは幸せな境遇を歌った歌ではなく、黒人の、悲哀に満ちた境遇のなかで歌われている子守歌という「反転」を、宮下奈都は上手に掬い取って、フィナーレのわが輪郭に描きこんでいく。それがまた、人が生きることの核心に触れていて、見事である。
そのストーリーはさておいて、私は宮下奈都の人間観が、これまでにない人間イメージを描き出していると考えている。人が言葉によって世界を描き出すこと。それはすなわち、日々の関係の中に言葉を紡ぎだして、自らの輪郭を描きとること。そのとき、世の中の価値や規範や大多数の評価をものともせずに、自らの人生を読み取っていく言葉を手に入れること。そう宮下奈都は浮かび上がらせる。
私たちは人を真似て(順接的か逆説的かは別として)生長していく。その最たるものが言葉だ。だが「真似」から脱して「自分のことばを手に入れる」ことに、自律するころから悩み、呻吟する。そのとき、世の中の規範や価値や評判とは別に自らの心裡に醸し出されてくる「ことば」を発見することが生きている感触と直結しているとき、生きる力を手に入れていることになる。教えられることではなく、教えることの出来るものでもない。まさに実存する関係の発露として見出すことだ。
どうあっても、YES-NOのアルゴリズムに背骨を支えられているAIなんぞに適うワザではない。そう感じとっただけで、充実した読後感に浸っている。
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