2017年11月18日土曜日

視点をどこに据え、いかなる視線をもってみるか


 今月の「ささらほうさら」月例会の講師はktさん。「いじめについて思うこと」と題して、彼が小学校教師時代のことを振り返って、「1、意味」「2、道徳性」「3、起きたときどうするのか」「4、言えないいじめ」「5、親」「6、教師の姿勢」と展開した。その初っ端から、聞いている私は躓いた。


 小学生がたのしみにする遊びに「手つなぎ遊び」というのがあるらしい。鬼になった子が逃げ回る子を捕まえると手を繋いで次の子を追いかける。鬼が多人数になると切り離して、それだけ鬼の(塊の)数が多くなるという遊び。全員が捕まると、ゲームは終わり。ところが「鬼は自分と仲良しの子をねらいがちになる」から、「そこにタッチできる子がいてもスルーすることもある」。ktさんは「このような「差別」が起きないようにするが、万全ではない」とみて、「鬼」を班別にし、一人が孤立しないように工夫したという。

 「いじめは理不尽なものである」とktさんはいう。私の躓きはそこから始まった。そうか? 「手つなぎ遊び」において「のけ者」にされる子どもが、仲良しがいないとか鈍いとか乱暴者とか、いろいろ捕まえる子の好みもあるであろうが、すぐ近くにいた教師が「仲良しをねらう」というのが的を射ていたとして、ゲームの性質上全員捕まえないでは終わらないのであるから、後回しにされることがどうして「差別」なのかわからなかったからだ。「鈍い」子と手を繋いで鬼になるのは、追いかけるあとが面倒という判断があったとしたら、それはゲームの合理的戦術判断ではないのか。乱暴者と手をつなぐのが嫌だというのも、私にはわかる。いいかどうかは別として子どもはそう(自分の思いを他者に対して)露わにすることに容赦がない。子どもの遊びというのは、お互いの間の違いを、とろいとか鈍いというゲームにかかわる能力差として顕わにしてしまう。ときにはゲームに関係のない、日常的な振る舞いの文化性による違いを浮き彫りにし、「好き/嫌い」にすることもあろう。その互いを、ほんとうにこまごまとしたことまで含めて、動きと体で感得しながら人は「じぶん」を認知し、「じぶんのせかい」を描き出していくものだと、私は思っている。だからその過程で、「好き/嫌い」が露わになり、差別的な振る舞いに至ることがあるのは、避けられない。いわば成長過程の不可欠の要素とさえいえる。これは「理不尽」なのであろうか。「理不尽」というのは、子どもの自己認知にとって不可欠という作用をみていないからではないのか。

 ktさんが「道徳性」というとき、正義感とか正しいことを訴えるという(義侠心とでもいうような)勇気とかを想定しているように見える。赴任直後の出張の折に「自習するときの注意」を伝えておいたところ一人の生徒が「こんなことはまもらなくていいんだよと言った」と非難して訴えてきた二人の生徒がいたことを、「正義感に打たれながら……立派なことだと思った」とktさんは述べている。非難された子は泣いて反省したので、その場は収まったという。だが私は、「こんなことはまもらなくていいんだよ」といったその言い分を、その子にどうして言わせなかったのか。泣いて済ませることではない、なぜそう思ったのか胸を手を当てて考えてごらんと、なぜ聞かなかったのかとと問うた。クラス替えがあったばかりだったそうだが、それこそが(それまでにその学校で一般的であった)児童と教師とのかんけいを見て取る機会であったろうし、他の児童も含めて、「自習」における自分たちの学習のありようを(ことばで)明らかにする機会だったのではないかと思ったからだ(もっとそれ以外の方面へ飛び火することは予想できるが)。

 「道徳って何だと考えているのか」と問うたのは、学校の教師が考える「道徳」とは「教室の秩序を維持する振る舞い方」だと私が考えているからだ。そうだとすると、教師のいうことを聞きなさいという程度を逸脱する規範を、生徒に要求するのは過剰な道徳性ではないのか。小学生である子どもは、(たぶん)ktさんの考える「道徳性」と私がいう「教師のいうことを聞きなさいという程度の規範」とを区別することはできないかもしれないから、そこは教師が慎重に丁寧に伝えなければならないことと思う。「私には小学校の教師は務まらない」と話したのは、その技術が、ことばではなく具体的なアクションとして表現できなければならないであろうが、それは私の力量を越えるとふだん考えてきたからだ。高校生や大学生を相手にしたときには、私のことばが通用した。むろん普段の振る舞い方を土台とする「場」のつくる気風も大いに影響するのだが、私の相手もおおむね言葉のやりとりで意を通ずることができる文化性を持っていた。それに私は救われてきた。だから逆に私は、私自身の心情から、割と自在に言葉を発して、理非曲直を、場面の限定を備えて訴えることができていたのだと、振り返って思う。

 ささらほうさらのその場面で、kwrさんが中学校教師をしていたころのことに重ねて、「私は教室や学校における公的な場面以外での生徒のかかわりには感知/関知しようとしなかった。わからないからだ」と発言するのを聞いて、鮮明になったことがあった。ktさんが「いじめは理不尽」というとき、彼は小学生である子どもの「状況」を担任教師(=おとな)の視線でみている。それに対して私は、ほぼ同じように内面形成をしてきた痕跡を感じとって、小学生の視線で「状況」をみている。kwrさんは「感知/関知しない」ことによって、教師としての領域限定を己に縛ったとは言えまいか。ktさんの(担任教師の)視線は大人ばかりか神の視線でもある。つまり、第三者が全体を俯瞰しながら子どもの所作を見て取り、価値づけている。だからktさんは「正義感とか正しいことを訴えるという義侠心とでもいうような勇気」を、実体的な徳目のように受けとめているのではないか。

 もちろん現場の教師であるかぎり、己の好みで規範を教えるわけにはいかないこともある。社会一般の道徳規範というよりも、見知らぬ他人と場を一緒にする時の道徳規範は、それがいかなる場であるのかによって統治的な力が作用しているから、それとの関係において自分で判断することになる。つまり、自分で考えなければならないと、教えるのが精一杯であろう。つまり教師としては教室の秩序、学校の秩序を保つことを第一として生徒に呼びかけ、指示啓発しているのだと教師自身が心得ることだ。

 (私がもっていた視線のように)児童や生徒の心情に己を重ねて云々するのは現場の教師としては、行い難いことだと思う。そう思って振り返ってみると、私が自在に言葉を発していたのは、授業という教室空間においてであった。すでに世の中の常識を教わり体現してきている生徒や学生たちが、自分の考えをもつというのは、無意識をふくめて体で覚えてきている感性や感覚、ことばや規範を、あらためてなぜ自分はそう感じ、そう思うのかと自らに問い吟味して、その根拠を明らかにする。そうすることで、自分の(確かな)感性や考えになる。それには、問いかけ、疑問を呈し、議論を吹っ掛け、論議に勝つことよりも、自分の根柢に水鉛を降ろすことこそが、世界を獲得する方法だと思って来たからである。それが可能であったのは、高校という教科の授業であったり、大学の講座やSeminarを仕切っていたりする(つまり全体を摑んでいる立場ではない)からであった。だからホームルームの担任教師としては、あるいは学年全体を統括する立場としては、それほど自在に発言してはいなかったと振り返って思う。

 まあ、いまそのように言えるのは、すっかりリタイアしてすでに15年も経っているからにほかならないと、わが暢気さに呆れてもいる。でもそうだからこそ、リタイアしてからの年寄りの発言が重みをもってもいいところがあるんじゃないか。そう受けとめてもらいたい。

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