2017年11月7日火曜日

human natureを生きるということ


 このところ毎朝、TV体操をしています。十分間、前半は体をほぐしたり、ストレッチをしたりするメニュ、後半はラジオ体操です。後半の体操はをしながら、そういえばいつごろからラジオ体操をしたろうかと思いめぐらすと、小学校1年(昭和24年)のとき、会場の学校に行こうとしたら通り道に牛がつながれていて、恐くて通れなかったことを覚えているからです。まだ朝暗いうちでしたから、冬かもしれません。でも、情景はほとんど覚えていません。体が覚えているのは確かで、音楽を聞くと、どういう動作をしたらいいかは、考えるまでもなくわかります。


 もう一つ覚えているのは、中学3年生の時。体育の時間に、ラジオ体操が身体のどの部分をどう動かしている、それが身体全体を動かすのに必要な、どのような流れをつくっていると解析してくれて、さあ今度は、自分でラジオ体操をつくってみろと「課題」を与えられ、私はそれを順序だてて組み立て、順番が来たときやって見せたら、教師から絶賛されたことがありました。どういう流れだったかは、これまたすっかり忘れているのですが、印象深い中学体育のラジオ体操になっています。

 TV体操は、仕事をしていたころは、毎朝、食事前にカミサンがやっていたのに付き合って、私もやっていました。でも、仕事に行けば一日に何万歩かを歩くほどの仕事でしたし、ときどきはジョギングをしていましたし、何より月に一度くらいは山を歩いていましたから、TV体操なんてと思ってはいました。仕事をリタイアしてからは、なぜかやめてしまって、もう15年にもなります。

 それがどうして再開することになったのか。9月の「化石化人間」です。カルシュムが溜まるというのは、身体の特定部分を動かさないからだと、私的に自己診断し、日々怠らず動かすことをカミサンに奨められ、つきあうことにしたのです。だいたい9割方行っているのですが、朝起きた時のその日の調子が、如実に表れるのに、驚いています。

 わずか十分間、まず、腰を立ててまっすぐに立つことがムツカシイ。どういうわけか朝の寝起きは、腰を伸ばせないのです。うまく背骨が骨盤の上に立たないというか、乗らないというか。無理に伸ばそうとすると、ギクッと来そうで、とても怖い。体を曲げる、ねじる、反る、回すなどの、一つひとつに私の身体の関係個所が痛みとか、重いとか、固まっているとか、壊れそうというリスポンスをしてきます。ことに、ぴょんぴょん飛び跳ねるなどは、なかなか大変です。

 膝が伸びていない、腕もまっすぐにできない。反るなどということは、ただ単に頭を天井に向けるだけなのに、真上が見上げられない。情けないというよりも、そうか歳をとるということは、かくなるものかとわが身を鏡に照らしてみているような気分です。ま、それだけでもTV体操をつづけている意味合いはあると思います。若いころ、同級生のラジオ体操を観ていて、何だかやってもやらなくても同じようなことをしているなあと、批判的に思っていたことを想い出します。ですが、今ここに至って、まさに私自身がその状態にある。しかも、やらないよりはやった方がましと、お世辞でもなく言えるような「効用」を齎している。

 自然と向き合うというのは、じつは己の自然(じねん)は意識的にコントロールしてやらねば、どこかが錆び付いて来るものだと見切ったところからはじまるものだと、いま思っています。私たち日本人の「自然観」は、放っておくことを「自然(しぜん)」と思ってきました。それは、どこか不可思議な力が働いて「神の手」のように自動調節してくれると信じているような、無邪気な自然観だったと思うのです。やはり、自然(しぜん)をわが身に引き寄せて自然(じねん)として考えてみると、意識的な向き合い方こそが、human natureを我が身そのものとして上手に付き合う第一歩じゃないかと思えてきました。ヨーロッパ的な自然観に近いと思うかもしれませんが、そうでもないような気がしています。そのあたりを、ぼちぼち解き明かしていければ、TV体操も悪くないかもしれませんね。

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