2018年11月17日土曜日
暮らしを織る
大城立裕『あなた』(新潮社、2018年)を読む。大城が生きていることも知らなかったし、こんなふうに坦々と、でもしぶとく憶えているよと伝えようとする筆致を駆使しているとは、思いもよらなかった。いや、敬服。彼は1925年生まれ。大正14年生まれになるが、「著者紹介」では西暦しか使っていない。まるで沖縄の大西巨人だと、私の印象は記憶している。本書は、短編集。
「あなた」は、亡くなった連れ合いへの追悼を独り語りしたら、原稿用紙で140枚ほどになったという風情。追悼とは言いながら、とどのつまり自分のことを紡ぎだし、その織り糸の重なりの合間に連れ合いの人となりがぼんやりと浮かぶ。大城の自伝的物語であるのに、横糸の絡みなしでは織りすすむことができなかったなりゆきが読み取れて、よくぞ傍らに居てくれた僥倖を紡ぎだす。男社会を生き抜いた男の記録だ。こんなふうに私はカミサンのことを書き止めることができるだろうかと、思いは飛ぶ。
「辺野古遠望」は、いま問題の辺野古のことだ。沖縄の人たちから誇りと呼ばれた作家は、沖縄人の心裡をピタリと押さえる。右とか左とかいうよりも、本土国家からうっちゃられてきた沖縄の存在それ自体が、突き刺さるように書き落とされる。本土と向き合うよりもアメリカの軍と向き合う方が楽だという。機能的に対すればいいと思っているようだ。それに対して本土は、薩摩の時代から沖縄を見下して利用してきた、と。普天間を辺野古に移しても、沖縄を沖縄へ移しただけ。なんにもなんええと沖縄人は見ている、と。文はしかし、「遠望」だ。今年93歳になる作家は、実業家の甥っ子が辺野古の工事を請け負うことになっても、それが両者の衝突につきあたるであろうが、そこにモンダイにが含まれているとは思っていない。ただ、どちらともいえない状況を、切りとっているばかりだ。自分の思いを伝えたところで、坐骨神経痛で動きのとれない年寄りが、何ができるわけでもないと見切っているように見える。
「B組始末記」が、大西巨人を思い起こさせた。大西のように法律の文言を逐一細かくとらえて相手に迫っていくというのではないが、八十年ほど前の県立中学校同窓生、何人ものかつての振る舞いと現在の動静とその間に起こったことごとを、よくぞこれほど細かに想起したと思われるほど、綿密に書き留め、わが身の過ごした、対象14年生まれ世代の人生を浮き彫りにする。この視線にも、作家が自らの目に焼き付けた「せかい」が確固として存在していたことを思い知らせる。私にもこういう友人がいる。名古屋の銀行に長く務め、今は退職してアユ釣りに思いを巡らしてい悠々自適のO君彼も、自分がかかわった人々、一人一人の名前と人物とを見事に記憶にとどめ、話しの都度、上手に引き合いに出して生き返らせる。その視線と言葉に、私は過ごし方の180度の違いを感じて、身が縮こまる。
ものごとに対するに、具体的でなくてはならない。人に対するに、その人柄がにじみ出るように語らなければならない。そういう道筋をどこかへ置いてきてしまったんだなあと、この歳になって慨嘆している。私が織ってきた暮らしって、何だろう。
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